その感覚を完全に失っている現代人からすれば、和歌は難解な上に、ストーリーの流れをいちいち止めてしまうものだと感じてしまい、そもそも古典文学の世界観に入りきれない原因の1つになっている。飛ばしたくなる気持ちはとてもわかるが、やはり作品が書かれた時代の読者にとって、それはむしろ登場人物の心の声であり、性格などがくっきりと現れる写真のようなものだったのだ。そして、面白いことに、葵上は一度も和歌を詠んでいない。彼女以外に和歌を詠んでいないのは、桐壺帝の正妻、源氏君の天敵こと、弘徽殿大后だけだ。
そのような背景を踏まえて、源氏君は葵上が和歌を詠んでいると聞いて、大変に驚き、六条御息所の生き霊の存在を見抜くのだ。結局心を閉ざされたままで葵上が命を奪われてしまい、源氏君を愛していたのか、どのような気持ちで結婚生活を送っていたのかは、永遠にわからないままである。
あの三島もひかれた
六条御息所の怨霊は、夕顔を殺し、葵上を殺し、本人が死んでからも活動が活発で、紫上の命も奪ってしまう。さぞ執念深い人だっただろうけれど、彼女の存在は物語を大きく盛り上げ、その出番はストーリーのターニングポイントと重なるところが多い。しかし、主人公級の働きを見せているのに、六条御息所にちなんだ巻はない。
それに引き換え、葵上は自らの感情を一度も表現することないのに、「葵」と名付けた巻がきちんとあり、生き霊をテーマとした能楽も「葵上」というタイトルになっている。
三島由紀夫も葵上の不思議な魅力に引かれたのか、1956年に刊行された『近代能楽集』の中には、「葵上」というものが収められている。妻の見舞いに行ったら、元カノの生き霊が押しかけてきて過去にタイムスリップする話だが、舞台の間中、妻の葵はずっと意識不明の状態で、セリフがない。しかし、彼女がいなければ、物語もそもそも始まらないわけだ。
紫式部の葵上も三島の葵も、謎に包まれているからこそ、強い存在感を放つ。そのベールをあげて、中身を少しでもわかろうと、私たちは六条御息所の言葉を頼りにして彼女の内面を覗き込み、今まで誰も語らなかった葵上の物語を今後も求め続けるのだろう。
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