「トキワ荘」伝説の漫画家を多数輩出できた理由 手塚も石ノ森も赤塚もここで切磋琢磨した

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漫画界のレジェンドを多数輩出した「トキワ荘」。なぜ才能ある若手漫画家が多く集まったのか? 写真は解体される1982年11月時の様子(写真:共同通信)
手塚治虫や石ノ森章太郎、赤塚不二夫など日本の漫画文化を築き上げた漫画家たちを多数輩出したアパート「トキワ荘」。なぜトキワ荘に才能ある若手漫画家が多く集まり、大きく成長していったのか? コンテンツツーリズムに詳しい法政大学の増淵敏之教授による新刊『伝説の「サロン」はいかにして生まれたのか』から抜粋・再構成してお届けする。

日本の漫画は、長い歴史を有している。一般的には平安時代末期に描かれた「鳥獣戯画」が起源だといわれるが、現代の漫画とは大きく異なるので、あくまで写実的な絵画とは一線を画したエンターテインメント性を持った絵画にすぎないともいえる。漫画として多くの人々に読まれるためには、印刷機などの複製技術の発達を待たなければならなかった。

江戸時代に大坂で人気を集めた「鳥羽絵本」と呼ばれた戯画本が、現代的な意味での漫画の始まりかもしれない。このムーブメントは江戸へと伝播し、「北斎漫画」に代表される浮世絵をベースにした戯画、風刺画が多く生み出された。その中には現代にも通じるセンスが見受けられる。

1947年「手塚治虫」登場

幕末から明治にかけては、来日したチャールズ・ワーグマン、ジョルジュ・ビゴーなどによって持ち込まれた西洋風の風刺画=ポンチ絵が一世を風靡し、やがて北澤楽天が『東京パック』を発行して、漫画をポンチ絵から独立させる。

その後、岡本一平が日本最初の漫画家団体である「東京漫画会」を設立し、漫画は大衆娯楽へと転換していく。1923年に刊行された織田小星作、樺島勝一画の『正チャンの冒険』あたりから、現在の漫画の要素であるコマ割り、フキダシなどの手法が定着し、近藤日出造、横山隆一、杉浦幸雄などの若手が活躍するようになった。

少年少女を意識した漫画は子どもたちに支持され、1940年代には『少年倶楽部』などの少年雑誌に連載された田河水泡『のらくろ』、阪本牙城『タンクタンクロー』、島田啓三『冒険ダン吉』などが人気を集めた。これらの作品は単行本化もされ、好評を得ていた。

戦後の漫画は、『黄金バット』に代表される紙芝居が人気となったところから復興していく。そこから人気紙芝居を漫画化した廉価な赤本(少年向けの講談本)の時代、続いて貸本漫画の時代にいたる。児童向け雑誌の発刊も相次いだが、初期のころは絵物語が中心だった。

この時期、戦前に一世を風靡した『少年倶楽部』の名編集長だった加藤謙一が、学童社という出版社を独力で立ち上げ、1947年から『漫画少年』を刊行した。これも漫画だけの雑誌ではなく、小説、読み物も掲載されていた。

そうした歴史の延長線上に、戦後になって手塚治虫が登場した。手塚は1947年に原作、構成者である酒井七馬と組み、『新寶島』を刊行すると、ベストセラーになる。これ以降、赤本や雑誌の読み切り、連載を経て、1950年から『漫画少年』に『ジャングル大帝』の連載を開始している。

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