「トキワ荘」伝説の漫画家を多数輩出できた理由

手塚も石ノ森も赤塚もここで切磋琢磨した

そして彼は高校2年生の春、『漫画少年』への投稿が手塚治虫の目にとまり、『鉄腕アトム』のアシスタントを務めている。その後、高校3年のときには『墨汁一滴』を編集するために上京し、東京の会員であった赤塚不二夫、長谷邦夫と会い、『漫画少年』編集部、手塚宅などを訪問する。『墨汁一滴』は1953年から1960年にかけて10回発行された。

石ノ森は『漫画少年』での投稿で手塚の知遇を得ると同時に、トキワ荘にたどり着く過程において、『墨汁一滴』を活用して独自のネットワークを構築していたのだ。中でも赤塚不二夫との交流はとても深いものだったようで、彼の『章説 トキワ荘の青春』にも頻繁に登場する。

なぜトキワ荘から有名漫画家が多数生まれたか

この時期は東京におけるメディアの確立期に当たり、それ以前から大阪にも貸本専門の出版社などはあったものの、漫画文化は東京の出版社を中心に回っていくようになる。

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『漫画少年』をはじめとする投稿文化成立の背景には、このような当時の社会状況があった。地方に居住する漫画家志望の若者たちにとって、東京の漫画雑誌の投稿コーナーは、世に出るための糸口であった。

ただ、入選して掲載される可能性を考えると、誌面に載るハードルは高い。そのため、身近な漫画好き、文通などで知り合った漫画家志望者たちと一緒に、単純に作品を発表したいという願望も大きくなり、それがさまざまな同人誌創刊に結び付いていったのではないだろうか。

トキワ荘は1982年に解体されたが、このアパートに住んでいた漫画家たちが、現在に至る商業漫画の本流を作ったことは紛れもない事実だ。だからこそ伝説のアパートとして、多くの漫画ファンの人々に知られている。

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