「トキワ荘」伝説の漫画家を多数輩出できた理由 手塚も石ノ森も赤塚もここで切磋琢磨した

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また、創刊3号目から『漫画少年』に漫画の投稿コーナーが設けられ、入選した作品を掲載するようになると、手塚治虫が投稿作品を講評するようになる。これが漫画界への登竜門的存在となり、プロの漫画家を夢見るアマチュアが多く原稿を寄せるようになった。

その手塚が1953年、新築間もないアパートに転居してくるところから、「トキワ荘」の伝説は始まる。トキワ荘は、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫など、日本の漫画文化を築き上げた漫画家たちが、若き日に住んでいたことで知られている。

手塚は学童社の編集者から、新築アパートだったトキワ荘への転居を勧められて住むようになる。手塚本人は2年足らずでまた転居するが、それから同社の雑誌『漫画少年』に連載を持つ若手漫画家が入居することになる。

『スポーツマン金太郎』で知られる寺田ヒロオは、1953年末に入居しているので、彼だけが手塚と被っている。

手塚退去後の部屋には、富山県から出てきた親友同士の漫画家コンビ・藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)が入り、その後2人は別々の部屋に住むことになった。

宮城県出身の石ノ森の入居は1956年のことであり、満州生まれで、奈良、新潟と移り住んだあと、東京の化学薬品工場で働いていた赤塚も、石ノ森の伝手で同年にトキワ荘に入る。

トキワ荘の若手を支えたテラさん

寺田ヒロオも『漫画少年』の投稿作家の1人であった。生粋の野球少年で、高校時代も野球部に所属し、社会人になっても継続していたが、22歳のときに一念発起し、漫画家を志して上京した。その際に、これも学童社の編集者からの紹介で、トキワ荘に入居している。

先述した『スポーツマン金太郎』をはじめ、スポーツ漫画を得意としたが、『暗闇五段』以降、執筆ペースを落とし、1973年には絶筆しているので、現代の漫画ファンにはあまりポピュラーな漫画家ではないかもしれない。

しかし、当時の寺田はトキワ荘に入居してくる漫画家と「新漫画党」を結成し、漫画誌に合作、競作を発表するなど、さまざまな活動をしている。「テラさん」の愛称で呼ばれ、面倒見のよい先輩として、藤子不二雄Aの『まんが道』などでも描かれている。

藤子不二雄が引っ越してくるに際して、寺田ヒロオが送った手紙がある。梶井純『トキワ荘の時代』からの孫引きになるが、引用したい。

アパートの件。
聞いて知っていると思いますが、敷金三万円。礼金三千円。部屋代一カ月分前払いで三千円が必要だと思います。
手塚さんにたのんだら、三万円の敷金は待ってもらえるでしょう。トキワ荘に入ってから、六カ月なり、三カ月なりで返したらいかがですか。どうしても無理でしたら、およばずながら小生が幾分かご都合しますから、ぜひ言ってよこしてください。(略)
僕のようにルーズにしていても、食費は月に四、五千円ですから、二人ならば、六千円ぐらいだと思うんですが。
それから毎月の部屋代が三千円。電灯・ガス・水道が五百円前後。そのほか新聞代などが五百円前後。食わずに寝ていてもこの四千円は毎月、必要です。
これに食費、交通費、そのほかを加えた費用が、月々出せればよいわけです。
(梶井純『トキワ荘の時代』ちくま文庫)

梶井も書いているが、手紙からも寺田の心配りのほどがうかがえる。藤子不二雄の2人をはじめ、新たな生活を始めていく不安を抱えながら、地方から東京に出てくる20歳にも満たないトキワ荘の面々にとって、寺田の存在がどれほど頼もしかったかは想像にかたくない。

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