「仏教・儒教・旧約思想」が同時期に生まれた理由 「資源・環境の限界」で考える「地球倫理」思想
この場合、これらの進化は“真空”の中で生まれたのではなく、やはりその時代の経済社会の構造変化と深く関わっていたと私は考える。
すなわち、これらはいずれも(約1万年前に始まった)農耕をベースとする社会における展開であり、農耕社会においては、それまでの狩猟採集社会に比べて、農作業という集団的な共同作業が中心となり、また(自然のサイクルという)時間的な秩序の中で生活が営まれていった。
そこでは神話を含め、共同体の中で人々が共有するような世界観(コスモロジー)が作られていくと同時に、そこでの“倫理”は基本的に「共同体の倫理」であり、「個」はその中に埋め込まれているような存在だったと言える。
しかしそうした農耕社会ないし農耕文明が、先述のように人口増加や経済の拡大に伴って資源的・環境的制約にぶつかるようになったのがその後半期であり、そこにおいて、以上のような「共同体の倫理」を乗り越え、それまでに存在しなかった「個の内的倫理」をうたう形で生まれたのが、枢軸時代/精神革命における諸思想であったと考えられるのである。
以上に対し、私たちが生きている近代社会ないし産業化社会は、当初から「個人」とその自由ということが中心的な原理となり、それが経済規模の拡大と一体となって展開してきた社会だった。
だとすれば、私たちがいま迎えつつあるその後半期の思想は、何らかの意味で「個人を超える」ようなベクトルを含む内容のものであるはずであり、それが本稿のテーマである「地球倫理」とつながることになる。
地球倫理という思想
以上を踏まえたうえで、私たちが今迎えようとしている、ここ200~300年続いてきた産業文明が「拡大・成長」から「成熟・定常化」に移行する時代において、新たに生成してくると思われる「地球倫理」について、その要点をスケッチしておこう。
ここでまず、私たちが現在使っているような意味での「地球」という観念は、仏教や儒教、ギリシャ哲学や旧約思想が生まれた枢軸時代/精神革命においては存在しなかったということを確認していきたい。
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