「仏教・儒教・旧約思想」が同時期に生まれた理由 「資源・環境の限界」で考える「地球倫理」思想

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そして、

●ギリシャにおける(ソクラテスの言う)「徳」ないし「たましいの配慮(care of the soul)」
●仏教における「慈悲」
●儒教における(「礼」の根底にある内的倫理としての)「仁」
●キリスト教における「愛」

のように、それらの諸思想は、内容や表現は異なるものの、それまで存在しなかった、人間にとっての何らかの精神的あるいは内面的な価値や倫理を新たに提起したのである。 

この場合、こうした新たな思想は、それまでに何もなかった空白地帯に突然のように生まれたわけではない。

やや立ち入った内容になるのでごく簡潔な記述にとどめるが、私の視点から大きくまとめると、それ以前の農耕文明社会においては、まず「宇宙的神話」と呼べるような段階があり、それがより合理化・抽象化されて「哲学的宇宙論」と呼べるような段階へと進化し、そしてそれがさらに「個人の内面的倫理」へと展開したところに、上記のような枢軸時代/精神革命の諸思想が生まれたのである。

インドにおける思想・倫理構造の進化

例えばインドの場合、紀元前1500年前後の時代に「リグ・ヴェーダ」と呼ばれる、多神教的な神々の讃歌としての叙事詩が書かれているが、その中の(おそらく最終的に到達した)部分に、「宇宙開闢(かいびゃく)の歌」と呼ばれる、世界の創造に関する文章がある。

そこでは宇宙の始まりにおいては「有」も「無」も存在せず、またこうした世界の創造がなぜ生まれたかは、(神々の創造はそれより後なので)誰にもわからないといった、現在においてもなお人類はこれ以上の認識に到達できていないと思えるような、根底的な思考が展開されている(『リグ・ヴェーダ讃歌』参照)。

そしてこうした宇宙的神話の先に、より抽象化された哲学的思考が生成し、いわゆる「ウパニシャッド」の書物群において「ブラーマン(宇宙の根源)とアートマン(自我の根源)の一致」や「輪廻の業からの解脱」といった思考が生まれる。

つまりここで(先の「リグ・ヴェーダ」のような)宇宙的なレベルの議論が個人のレベルにつながっていくことになり、そしてさらにその先に、ブッダの説くような、「慈悲」に収れんする個人の内的倫理(としての仏教)が生まれたのである。

以上はインドでの展開だが、これと同様の構造の進化が、中東(→キリスト教)、中国(→儒教)、ギリシャ(→ギリシャ哲学)においても共通して起こっているのではないかというのが私の見立てである。

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