かつて成功を手にした僕が苦しむ"男の問題" 「野ブタ。をプロデュース」から14年
――『たてがみを〜』に登場する男性は、物語が展開するにしたがって他者との対話を積み重ねていく。ときには相当な勇気を必要とする自己開示とともに、相手の話に耳を傾ける。
俺の中に入ってくんなよ。
おまえは俺のなんだ。
俺のなにをわかってくれるんだ。”
白岩さん:どうすれば男性が他者に届く言葉を持てるのかと、ずっと考えてきました。
1つは、男性自身が自分の感じている苦しさに気づくことだと思います。仕事をして得られる社会的な評価に乗せられることは確かに気持ちがいいけれど、結局それは競争の中の評価でしかないし、自分の居場所をいつ誰にとって代わられてもおかしくない世界なんですよね。どんなに仕事で認められても、自分の根本を認められてるわけではないことを、本当はみんなどこかでわかっているはずなんですよ。
だったら「あなたはここにいていいよ」という存在の肯定を、家庭や友人間で仕事とは別に得られたほうがいいじゃないですか。そのためには、そうした身近な人たちと関係性を築くための対話をする必要があると思うんです。そして、その対話を成立させるうえでは、自分が普段、どれだけ相手に敬意を持てているか、相手を無視して話し続けていないかといった、自分のある種の加害性に自覚的になることが、やっぱり重要だと思います。
互いの存在を肯定し対話を成立させることが大切
――しかし同時にそれは必ずしも「男性=加害者」「女性=被害者」という安易な構図を作ることを意味しないと白岩さんは言う。
白岩さん:『アナと雪の女王』を見たとき、僕は正直、女性がうらやましかったんです。あぁ、こんなふうに呪縛からの解放を魅力的に訴えることができるんだなって。主人公の姉妹がもし男性として描かれていれば、あの話はきっとあそこまでヒットしなかったと思うんですよね。男性はどうしても何かを押しつける側になりがちだし、そういう存在が呪縛からの解放を訴えても、説得力に欠けてしまう。
男として生まれてきた以上、自分は、望もうが望むまいが女性を縛りつける側にいて、無自覚に虐げていることすらある。そんな押しつける側の人間である自分が、エルサのように“ありのままでいよう”なんて歌うことは、決して許されないことだよなと思ってしまったんです。
僕は自分が有害な男らしさを振りかざしていないかと内省することにはいつまでも終わりがないように感じています。ただ、男性が内省を繰り返し、ありのままの自己を肯定する術を持てないことが、非対称なジェンダー観を是正することの到達点なのかというと、そうではないだろうという気もするんですよ。
だからやっぱり、社会における男女のあり方を考えると同時に、身近な人間関係のなかで、相手に敬意を持って対話を重ね、互いに存在の肯定をし合えることもまた、目指さなくてはいけないと思っています。男性が本当の意味でありのままの自分を肯定できるようになったとき、社会は変わると思うので。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら