京都とパリの「女」をめぐる意外すぎる共通点 なぜ京都の遊郭と「桂離宮」は似ているのか?
鹿島:そう。12世紀に、アリエノール・ダキテーヌという、アキテーヌ公国の女性領主がいましたけれど。この人は、フランス王ルイ7世(※7)の奥さんになって十字軍に行くんですが、後に離婚してアンジュー公アンリと結婚した。そして、そのアンリが相続でイングランド王ヘンリー2世(※8)となったため、イングランド王妃になる。フランス王妃とイングランド王妃の両方を経験した珍しい人で、そのダキテーヌが南仏で開いていたサロンが、文化的にはいちばんレベルが高かったのでね。
井上:アキテーヌ地方というのは、割と南のほうですよね。
鹿島:ええ。今の、ボルドー周辺ですね。それこそジロンド派の出身地である、ジロンド県が中心です。アキテーヌが中世における文化的発祥の地で、北のフランス王国より文化程度は高かった。フランスの南西部だから、やはりローマに近いし、スペインにも近い。当時スペインってイスラムの影響が強く、文化が高かったんです。そこから流れてきた吟遊詩人などのレベルの高い人がいたから、文化は南が強かったんです。サロン文化というのは、そこから起こった。北からじゃないんですよ。
井上:そうなんですよね。今、そのパリでサロン文化を維持していらっしゃるマダムとかは?
鹿島:いないわけではないでしょうね。多分あると思いますよ。私は実際アクセスしたことはないのだけれども。サロンは今でも健在だと聞いて、「じゃ、次そこへ連れてってください」と頼んでいた人がいたんですけど、その人が突然亡くなったので。残念ながら、サロンに入り損ねた。
朝廷文化とブルジョワ市民文化に共有項はあるのか
井上:メゾン・クローズは、よく行かれている?
鹿島:メゾン・クローズとして使われていたところなら知っているという人がいたので、「じゃ、連れてってください」と言ったのだけれど。こちらも約束は果たされなかった。フランスには第二帝政(※9)学会というのがあって、メンバーの多くは第二帝政の大臣たちの末裔。その人たちで作っているんですよ。第二帝政の関係者というのは第三共和制(※10)で冷や飯食わされて、正統王朝派からも継子扱いされているから、その子孫たちが集まって、第二帝政復権のために作ったらしい。みんな金持ちなので、「うわ、この第二帝政学会の幹部たちと知り合いになれたから、いろいろなパリの裏事情がわかるな」なんて思ってたら、私の知り合いは2人とも亡くなってしまった。残念。
「若年王」と呼ばれた、カペー朝第6代のフランス王。王妃アリエノール(アキテーヌ公領の相続者)は、ルイ7世と離婚後、後にイングランド王ヘンリー2世となる人物と再婚した。アキテーヌ公領はイングランド王のものになり、2国間の戦争の原因になった。
※8 ヘンリー2世
プランタジネット朝初代のイングランド王。広大な領地を持っていたが、息子たちの反乱に苦しめられ、最後は失意のうちに亡くなった。
※9 第二帝政
19世紀後半の、ナポレオン3世による統治時代のこと。
※10 第三共和制
第二帝政が崩壊した後から1940年までの約70年間の共和政体。