京都とパリの「女」をめぐる意外すぎる共通点 なぜ京都の遊郭と「桂離宮」は似ているのか?

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鹿島:そうですね。フランスのそういう政治的・文学的サロンで、かつ下部構造も持った元祖は、ルイ14世の時代のニノン・ド・ランクロという女性が開いたサロンです。ニノン・ド・ランクロというのは、高級娼婦とされているのだけれども、実際にやっていたことはロラン夫人同様、かなりレベルが高かったんですね。

鹿島 茂(かしま しげる)/フランス文学者。明治大学教授。 専門は19世紀フランス文学。1949年、横浜市生まれ。1973年東京大学仏文科卒業。1978年同大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学。現在明治大学国際日本学部教授。『職業別パリ風俗』(白水社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞するなど数多くの受賞歴がある。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設(写真:大沢尚芳)

じゃあなぜニノン・ド・ランクロは娼婦として扱われたかというと、結婚していなかったからなんです。つまり、マドモアゼルだった。夫に縛られないという選択肢を選ぶと、当時は娼婦扱いになっちゃった。

井上:事実上の娼婦だったデュ・バリー(※4)でも、夫人ですからね。

鹿島:夫人にしないと、宮廷には入れないからね。

井上:ポンパドゥール(※5)さんも夫人。

鹿島:ポンパドゥール夫人には、ポンパドゥール侯爵という夫がいたわけではないんです。夫は、徴税請負人のル・ノルマン・デティオールという男。ルイ15世に気に入られて愛妾になると、夫とは別居したのですが。平民の妻というのでは都合が悪いということで、ポンパドゥール爵領をルイ15世からもらって、マルキーズ・ド・ポンパドゥールとなったんです。でも、ポンパドゥール侯爵という男の妻だったわけではないので、正確には「ポンパドゥール女侯爵」と訳さなければいけない。侯爵領の所有者は、男なら「マルキ」、女なら「マルキーズ」になるわけです。

パリのサロン文化が花開いた背景

井上:今の、ルイ14世の宮廷に群がる夫人たちの話は多分、平安王朝の女房たちに割合近いと思うんですよ。領地をもらって、持ってる女房もいなくはないですし。その女房が集うサロン。日本文学史的には、紫式部のサロンなどが輝かしく語られます。でも、そこにあったのは、別にそういう文学だけのサロンじゃあありません。「あの女房きれいやな」とか「あの女房は、させてくれるらしい」とか、そういうサロンもあったんです。

だから私は、ショービニズム(排外的な愛国主義)がすぎるかもしれませんが、やはり言いたい。平安王朝は、ヴェルサイユを先取りしていたと。

鹿島:まったく先取りしていますね。あの時代のフランスというのは、まだフランク王国(※6)を廃して宮宰(宮廷職の中で最高の職)のユーグ・カペーが王権を握ったばかりの野蛮な国でした。というか、ヨーロッパで北は長い間、野蛮地域だったんです。南の地域が文明地域。

井上:やっぱり、ローマに近い南のほうが。

※4 デュ・バリー
娼婦同然の暮らしをしていたが、結婚して「デュ・バリー夫人」という名前を手に入れ、ルイ15世の公妾となる。フランス革命が勃発し、ギロチンにかけられ処刑された。
※5 ポンパドゥール
デュ・バリー夫人の前に、ルイ15世の公妾だった夫人。政治に関心が薄かったルイ15世に代わり、フランスの政治に大きく関与した。啓蒙思想家や芸術家たちとも交流した才媛で、大変な浪費家でもあった。
※6 フランク王国
5世紀から9世紀にわたり、西ヨーロッパにあったフランク族(ゲルマン民族の一派)の王国。カール大帝の死後、王国は3つに分裂してそれぞれ国になり、これが現在のドイツ、フランス、イタリアの基礎となった。
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