宮下さんは海外生活を通して、自らの「日本人」というアイデンティティを研ぎ澄ましている。内にこもらず外で歪めず、つねに客観視して外国人と相対化してきた。その視点は書籍のなかにさりげなく表れている。一例として『卵子探しています』の一節を挙げよう。
「私の欧米生活の経験からも感じることがある。私が住んできた国々では、知り合いや近所付き合いのある人々が、他人の子供を見てすぐには『お母さん(あるいは、お父さん)にそっくりですね』という声をめったにかけない。その理由は、一緒にいる子供が養子であったり、再婚した相手の子供であったりすることが多々あることを理解しているためで、日本でいう『悪気のないお世辞』が逆効果をもたらすこともあるからだ。
一方、現在の日本では、子供は血のつながった両親の子供である(はず)という常識が感覚的にまかり通っているのではないか。文化的な背景の違いもさまざまで、生殖医療が持つ技術に対し、法がどう噛み合ってくるのか、じっくり考えなければならないだろう。(100P)」
ノンフィクション記事には、ときに筆者の主観が挿入される。そこに色が付いていたり、格好よく見せようとする意図が乗っていたりすると、記事全体の品質が落ちる。宮下さんは各国の価値観の違いを気づかせようとはしながらも、「見たことを見たまんま正直に書けばいい。格好つけることがいちばん格好悪く思えてしまう」と話す。四半世紀にわたる海外生活でも日本人的な感覚にズレがないのは、そういう習慣が理由なのかもしれない。
良質なジャーナリズムにはメディアも応えてほしい
そんな宮下さんだが、現在も決して安泰とは思っていない。何しろ次の連載を予定していた月刊誌が突如休刊となったのだから。
「毎月のやりくりを練り直しているところです。ただ、代替えできるような媒体はないのでどうするか。WEBだと基本的には取材費を出してもらえないですし、悩ましいですよね……」
それでも、一生ジャーナリストとして食べていきたいと、いまでは強く思っている。
「厳しい状況ですけど、それでもノンフィクションの書き手が消滅することはないと思っているんですよ。紙媒体はどんどんなくなっているけど、おそらく書籍は残るので。ただ、転換期なので、淘汰が進んで残る人だけ残ることになるでしょう。その残る側にいなければ。
せっかくジャーナリズムを追求してきて、あえて物書きをずっと続けてきて、全然食えなかったけど、いろいろな人に支えてもらって、自分も代償を払ってきた。ここまで犠牲にしたんだからもう最後までやるしかない」
著書『卵子探しています』や『安楽死を遂げるまで』は、医療界や政治家を動かし、現在の社会の問題点を見つめ直したり新たな制度つくりの原動力になったりしている。そうできることが良質なジャーナリズムではないかと宮下さんは考える。しかし一方で、そうした役割に対してきちんと対価が支払われているのだろうか。
「今は良質とは何かを見極めがたい時代になってしまった。このままでは社会が衰退してしまう。良質なジャーナリズムには、メディアもちゃんと投資してほしい」
宮下さんは現在、2本のテーマを併行して追いかけている。ひとつは、右傾化が進む欧州各国の国民の心境に何が起きているのか調べていくもの。もう1つは、連載の場が一旦宙に浮いてしまったが、世界各国の死刑制度についてだ。両作品が書店で並んでいるところを見たい。取材を終えてそう思った。
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