そこで一度帰国し、ビジネス雑誌や国際情報誌、スポーツ誌、ノンフィクション雑誌など、自分が書けそうな雑誌の編集部を片っ端から回って、書かせてもらえないかと営業した。結果、門前払いを山のように経験することになる。
「若さですよね。20代前半の若造がジャーナリストを名乗ったりして。無理なんですよ。何の経験も実績もない人間が週刊誌や月刊誌に書かせてもらえるわけはなくて」
2000年代前半は紙媒体に勢いがあり、多彩な雑誌が書店やコンビニでひしめいていた。とはいえ、各雑誌のページ数には限りがある。その限られた枠を著名な書き手が取り合う激しい争いを繰り広げていた。枠の制限がシビアではないWEB媒体はまだまだ力が弱い頃。「署名記事が載る」ということに今よりも強い意味があった時代だ。
連戦連敗を重ねる宮下さんだったが、蜘蛛の糸を垂らしてくれた編集部が1つあった。岩波書店の月刊誌『世界』だ。ブラジルで起きている反グローバリズム運動の動きを取材してほしいとの依頼で、特別に取材費を用意してくれた。すぐに現地に飛び、8万字の長文ルポを書き上げた。単行本にはならなかったが、いまでもそれがジャーナリスト宮下洋一のデビュー作だと自負している。
実績がつくれたらそれが足掛かりとなり、営業の成功率はグンと上がっていく。すでに狙った編集部すべてに顔は通してある。デビューから1~2年経った25~26歳の頃には、多くのメジャーな月刊誌や週刊誌の目次に自分の名前が何度も載るようになった。顔ぶれのなかで「つねに最年少である」ことが誇らしくもあった。
生活の不安を抱えながら家族の支えで仕事は続けられた
その一方で、当時は「全然食べていけなかった」という。
情報を下調べてして現地に赴き、取材を重ねてさまざまな考察と検証を重ねたうえで記事にする。手の込んだ準備をした取材が空振りに終わることもあるし、思った以上に真相が複雑で追加の取材をしなければならないことも日常茶飯事だ。十分な取材費をもらえたとしても、予定通りの収支で終わるかはやってみないとわからない。かといって生活の安定を重視して、先々まで仕事を詰め込むと身動きがとれなくなってかえって仕事にならなくなる。
その矛盾を埋め合わせてくれたのは家族だった。「当時結婚していたフランス人の妻の稼ぎがなければ立ちゆかなかった」と振り返る。「ジャーナリストは40歳を越えてようやく食えるようになる」――。先輩ジャーナリストたちからはよくそう聞かされたという。
いまだ生活の不安を抱えながら作ったのが、2006年発行の『外人部隊の日本兵 たった一人の挑戦』(著・宮下洋一/写真・横田徹)だ。
端緒は2005年に元フランス外人部隊の邦人傭兵がイラクで命を落とした出来事だ。それを受けて、自宅近くにあるフランス外人部隊の募集事務所で話を聞いているうちに構想が膨らんでいき、「これは自分のテーマじゃないか」と強く思うようになったという。そして、4カ月かけて10人以上の外人部隊の日本兵にインタビューし、仏領ギアナでのジャングル訓練に同行もして初の著作を書き上げることになった。
書籍はたちまち日本で話題になって大成功。テレビは3夜連続のドキュメンタリー特番を組んだ。宮下さん自身も、「これでキャリア的にも収入的にも右肩上がりにいくんじゃないか」という感触を得た。プライベートでは刊行直前に第1子が生まれ、公私ともに幸せになるかと思えた。
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