40歳で花開いた「物書き」の譲れない使命感

社会を動かす良質なジャーナリズムに徹する

2018年10月、宮下さんが一時帰国の拠点としていた民泊の近く、東京・蒲田駅近くのカフェで2時間。これまでの歩みとこれからの生活と仕事について語ってもらった。

宮下さんが生まれたのは1976年の長野県北信地方。上に姉が1人いる核家族家庭の長男として育った。家族や親戚、周りの知人に国際色を帯びた人は誰もいなかったが、子どもの頃から英語に強く惹かれていたという。

英語力を貪欲に高めていった学生時代

「原体験みたいなものはないんです。何かで英語という言語を知って、子ども心に世界は日本だけじゃないんだなと思ったんですよね。まずは英語をしゃべれるようにして、アメリカに行って、いつかは世界中の人たちといろいろな言語で話せたらいいなと考えていました」

当時の英語教育は中学校から。小学生の宮下少年は、誰に指図されるでもなく、ぬれてもいい英単語帳を風呂に持ち込んだりNHKの英語放送を聞いたりして、独学で英語を身に付けていった。友達は少なくなかったが、英語に関して気の合う相手はいない。1人でひたすら英語力を深めていった。

その情熱は、中学校に上がったときに英語教師から誘われた高松宮杯全日本中学校英語弁論大会で日の目をみる。北信地区と長野県大会で連続優勝し、全国大会に出場。この実績がアメリカへのサマーキャンプの道を開くことになる。

実現したのは高校1年の夏休み。かねて夢見ていたアメリカ体験は刺激的でとても楽しかった。本格的にアメリカ留学したいという思いを強くし、帰国して両親に希望を伝えたところ、「じゃあ大学からアメリカに行くのはどうか」と父親に言われた。以来、高校の進路希望調査で国内の大学を記入したことは一度もない。

理解のある両親だった。父親は宮下さんが小学校中学年の頃に脱サラし、地元でダンボールの設計デザイン会社を起業している。軌道に乗っても子どもに継がせるといった気持ちは持たず、いつも自分たちの好きなように生きることを勧めてくれた。

「自分や周りを見ていると、海外生活には周期があって。最初の5年は、言葉がしゃべれるようになってその国のことが大好きになる。10年経つと悪い部分が見えてきて、逆に日本すごいなとなる。15年経つと、これはこの国がよくて、あれはあの国が優れている、とやっとわかってくるんです」と宮下さん(筆者撮影)

そして1994年、ウェストバージニア州立大学外国語学部に入学する。意思疎通も授業の理解も苦労はなかった。しかし、ここでコミュニケーションの次の壁に直面することになる。

「空気感みたいなもの、非言語のコミュニケーションは簡単に身につけられるものじゃないんですよね。言葉じゃなく、その国のことを深く知らないと本当のコミュニケーションは成り立たない」

象徴的なのはユーモアだ。どこにツボがあって、何がニヤリとさせるのか国のバックボーンによって異なる。学生時代は笑うことや、友達を笑わせることは全然できなかったと振り返る。

「相手を笑わせることができないと外国の生活はけっこう厳しいし、そのあたりでカルチャーショックというか生きていく難しさを学びましたね」

次ページ自国の理解が浅いと「薄っぺらいヤツ」と思われてしまう
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