「ただお笑いをやろうとは思ってなかったですね。先輩に大川興業(大川豊、江頭2:50などを中心としたお笑いグループ)に連れていってもらって、そこで尖りすぎたお笑いを見る機会がありました。そこからショー演劇の人たちと飲むようになったり、『ガロ』や『COMIC CUE』などサブカルチャーな漫画を読むようになったりしました」
大学2年からは、『ガロ』を発刊していた出版社、青林堂などに漫画の持ち込みに行くようになった。
「『ガロ』なら絵がうまくなくてもいけるだろうと思いました。そしたら編集さんに『絵の練習をしなさい』って言われて(笑)。つげ義春さんや水木しげるさんの絵を模写していました。大学2~3年生の間は毎月漫画を持ち込んでいましたね」
昼間は学生プロレスを頑張り、深夜はコツコツと漫画を描く生活を続けた。
ただ学業もきちんとこなし、大学3年生の時点で就職の内定を決めてしまった。
その頃、全国的には『タモリのボキャブラ天国』がブームに、大阪では心斎橋筋2丁目劇場が人気になっていた。「深夜に漫画を描きながらよくお笑い番組を見ていたんですよね。ボキャ天で活躍するネプチューンさんのファンでした。
そんな折、2丁目劇場でオーディションをやっているという話を聞きました。記念受験的な感覚で、一度受けてみようと思いました」
レイザーラモンHGと一緒にオーディションを受ける
オーディションに出るにあたり、当時同志社のプロレス研究会にいたレイザーラモンHGさんに声をかけた。
「HGとは時々会っていましたけど、そんなに仲が良いってわけではなかったんですよね。でも彼はプロレスの中にお笑いをちりばめていたんですね。そこで『お笑い好きなんやろ? 一回一緒にオーディション受けてみないか?』って声をかけました」
政治家が「消費税反対!!」などと叫びながら一般人を殴る、というネタを引っさげて2人でオーディションを受けたところ一発で合格した。
そしてそのノリで漫才師の登竜門的なコンテストである、今宮子供えびすマンザイ新人コンクールにエントリーしたところ、なんと大賞を受賞することができた。
「あれよあれよとお笑いの道に進むことになりました。ただ2人ともすでに就職が決まっていました。僕は自動車ディーラーの会社に就職し、二足のわらじを履くことになりました」
その頃、新人のお笑い芸人の出番はほぼ土日しかなかった。
土日は会社のソフトボールの練習があったが、用事があると言って参加しなかった。会社の先輩の中には、
「なんでソフトボールの練習休むねん!? なんの用事があるんや?」
と強く責めてくる人もいた。居心地は悪かった。3カ月ほど働いたが、結局辞めることにした。
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