ITバブルで景気が良い時代だった。地方に呼ばれたときには高級なホテルに泊まらせてもらうことも多かった。
「地方のCMに出たときは社長に『ギャラはいくらがいい?』って聞かれました。『え、いくらでもいいんですか、たとえば100万円とか……?』とおそるおそる言うと「じゃあ100万円にしよう」ってあっさり決まりました。
当時毎日新喜劇に出て月に5万~6万円。住み込みでアルバイトして月20万円くらいの稼ぎの時期でしたから。売れたらこんなに景気が良くなるんだ、って思いました」
東京の仕事が中心になってきたため、上京しようという話になった。
RGさんはちょうど子どもも生まれたときだったので東京に進出する抵抗はあった。
「ただその頃、ビデオボックスの仕事で、そろそろ同じ会社が経営する性風俗のお店で働かないか?って声をかけられていました。さすがにそこまでいくと、その世界に骨を埋めなきゃならなくなるな……と思って仕事を辞めさせてもらいました」
仕事を辞めてすぐに上京した。結果的にはHGさんより先に東京に移り住むことになった。
南海キャンディーズの山ちゃんの言葉
「コンビでハッスルという団体でプロレスをするようになりました。そして個人的には『ド短期ツメコミ教育!豪腕!コーチング!!』というTV番組で東大を目指すという企画に参加することになりました」
1週間毎日勉強して後楽園でプロレスの試合をする、そしてまた1週間勉強して横浜アリーナで試合をする……というとんでもなく過酷な日々が続いた。
「本当に忙しい日々でした。その頃の記憶はほとんどないですね。嫁や子どもにもあまり会えませんでした」
学生プロレスをやっていたとはいえ、特別に身体を鍛えているわけではない。本職のプロレスラーにチョップされたり投げられたりするのは本当にきつかった。
「辞めたいな」
とひとりごちていると、南海キャンディーズの山里亮太さんに、
「頑張って耐えてください。いつの間にかすごい力ついてますよ」
と助言された。
「山ちゃんも『気持ち悪い』とか『死ね』とか言われてる時期は本当にしんどかったけど、なんとか『少しでも相手にダメージを与えたい』と思ってツッコミを返しているうちに、今や返しの大達人になって引っ張りだこになってますよね。しんどい思いをしたら、それが力になるんですよ。
そのときの山ちゃんの言葉は、とても心に響きました」
忙しくてつらかったが実入りの多い時期でもあった。
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