「所長に
『親が病気なので辞めさせてください』って言ったら
『うそをつくな、本当のことを話せ』
って言われました。それで、正直にお笑い芸人になりたいので辞めさせてくださいって言いました。
所長も実はその仕事に就くまでに何十回も仕事を変えてきた人でした。
『仕事を辞める気持ちはわかる。でも“これ”と決めたことに出会ったら続けろよ』
と応援してくれました。言葉が身にしみましたね」
本格的にお笑いを始めたが…
そしてよしもとクリエイティブ・エージェンシーで本格的にお笑いを始めたが、人気は思うように出なかった。どんどん仕事がなくなっていった。
食べていくために、昼間はホテルのベッドメイキング、夜は繁華街の花屋と2つのアルバイトをやっていた。
「つらい時期でしたね。毎日クタクタでした。起きられなくて遅刻する日もありました」
しばらくして2人とも吉本新喜劇の座員になった。新喜劇では出番は多くはないものの、毎日なにかしらの仕事はあった。
毎日昼間に仕事が入るようになったので、アルバイトを深夜に働く個室ビデオボックスの受付に変えた。
「当時はほとんどビデオボックスに住んでいるような感じでしたね。生真面目な性格なので、アルバイトでも頑張ってしまって、結果的に店長にまで上り詰めてしまいました(笑)。アルバイトの採用や、データを取ってビデオを発注するなどちゃんと仕事をしていました」
RGさんがビデオボックスで働いている時期は、ビデオテープからDVDに移行しつつある頃だった。会社としてビデオテープはドンドン捨てていこうという流れだったが、RGさんは、
「ある程度の作品は捨てずに取っておきましょう。根強いファンがいますから」
と物申した。上層部も、お前がそこまで言うなら取っておこうと折れてくれた。
「その後、利用者からアンケートが帰ってきたんですよ。読むと『中学校のとき、はじめて見たビデオがありました。初恋の人に会ったような気持ちになりました』って書いてありました。それを読んで、自分の仕事に誇りが持てました。うれしかったです」
昼間は新喜劇、夜はビデオボックスの店長という日々は派手さはないものの収入は安定していた。RGさんは、結婚し子どももできた。
そして2005年、相方であるHGさんがハードゲイのキャラクターで全国的に大ブレイクした。
「HGのブレイクは単純にうれしかったし、誇らしかったですね。嫉妬とかは全然なかったです。当時、しばらく大阪出身の芸人が全国区で売れていない時期でしたから『どうだ!! すごいだろう!!』という気持ちでしたね」
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