さて、主人公は、パレスに潜り込み、ペルソナの力をもってシャドウを改心させるという、大人たちの横暴や無責任さに対して、対抗するすべを手に入れる。
『ペルソナ5』で改心させていく大人たちは、きっと現実世界のどこかにいる大人たちである。特に改心させるような強い欲望を持った大人たちの周りにいる、自分では何もしないくせに、強いもののそばで利益を貪る無責任な大人たちというのは、誰にでも具体的な個人が浮かぶような、よくいる大人たちである。そうした大人たちをぶちのめし、改心させて、涙ながらに罪を告白させる楽しさというのは、確かにある。
一方で、主人公たちの得た力を、そのように誰かを罰するためにばかり利用してもいいものだろうか?
主人公たちが活躍するにつれ、悪人を改心させる怪盗団のうわさは確実に広がっていく。そしてあの悪人を成敗してほしいとみんなが望みだす。
最初は自分の学校の体育教師という身の回りの問題を解決するための手段として心を盗んでいたはずが、徐々に主人公たちは周りの期待に流されていくようになってしまう。
『ペルソナ5』に対しては、ネットでも褒め称える意見が多い中で、「最初の鴨志田のときがピークだった」という、一見批判的に思える意見をする人もいる。それはシナリオが息切れを起こしているのではなく、改心時のカタルシスは鴨志田のときに大きい一方で、徐々に怪盗としての活動が世間に流されていき、本人たちの意思とはハッキリと言えない活動を背負い込まされていくという、シナリオ展開の妙によるものである。
海外RPGとは、異なる自由度
海外ではオープンワールドが巨大化し、少し前なら不法改造扱いだったMOD(主にパソコンゲーム用の改造データ)にゲームメーカーが公式対応するなど、世界を相手にしたRPGはその規模も壮大で、ゲーム内での自由度も、ゲームの改造というゲーム外での自由度も圧倒的である一方で、日本のRPGはこれまでの枠にとらわれて、発展できずにいるような気がしていた。
『ペルソナ5』をプレーすると、そうした海外RPGの自由度とは、異なる自由度の考え方があることがわかった。それは自分たちの生活の中で感じる自由度である。
ゲームが進むにつれて、主人公はいろいろな場所に行くことができるようになるし、いろいろな人とコミュニケーションできるようになる。そして主人公の世界は広がりを見せていく。
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