世界が認めた「長崎・天草」の不都合な真実 世界遺産登録から「生月島」が外された理由
中東のバーレーンで開かれているユネスコの世界遺産委員会で6月30日、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に正式に登録された。日本の文化が世界に認められた喜ばしいニュースとして大々的に報じられているが、そもそも「潜伏キリシタン」という言葉が、ちょっと耳慣れない。
一般的に知られている言葉は潜伏キリシタンではなく、「かくれキリシタン」だろう。高校の歴史の授業で習うのは、次のような姿だ。
〈当初キリスト教を黙認していた江戸幕府は1610年代以降、禁教令によって宣教師やキリスト教信徒に対して処刑や国外追放など厳しい迫害を加えた。多くの信徒は仏教に改宗したが、一部は屈せず、殉教したり、ひそかに信仰を維持したかくれキリシタンもいた〉
表向きは仏教徒を装い、踏み絵に足を掛けながらキリシタン信仰を続けた人々である。ただ、彼らのその後についての歴史の教科書の記述を読み直してみると、「1873年(明治6年)、禁教の高札は撤廃されキリスト教は容認された」という記述で締めくくられている。つまり、「隠れる必要がなくなったので『かくれキリシタン』は、日本からいなくなった」と考える人が多いはずだ。
「かくれキリシタン」信仰は現代にも残っていた
ところが、事実は異なる。信教の自由が保障され、迫害のない21世紀の現代にも、禁教期の「潜伏信仰」を守り続けている人々がいる。
宗教法人もなければ事務局もない。このため正確な分布は明らかではないが、最も多くの信徒が残っているのが、長崎県西北端、東シナ海に浮かぶ「生月島(いきつきしま)」だ。この人口6000人足らずの小さな離島に、私はこの1年、繰り返し足を運び、先祖から受け継いだ「かくれキリシタン信仰」を続けている人々の話に耳を傾けてきた。
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