世界が認めた「長崎・天草」の不都合な真実 世界遺産登録から「生月島」が外された理由
例えば、ポルトガル語と日本語が入り混じった前述の祈りを見てみよう。
「ひーりょう」=Filho=子(イエス・キリスト)
「すべりとさんと」=Espírito Santo=聖霊
「みつの」=三つの
「びりそうな」=persona=面
「ひとつの」=一つの
「すつたんしょー」=substantia / substâcia=実体
分解した単語の意味を組み立て直して再読してみると、「父、子、聖霊の三位一体」というキリスト教の「神の姿」を表現した言葉に“翻訳”できる。短いセンテンスの中に、ポルトガル語の難しい概念を伝えようとした宣教師らの言葉を残しながら、祈りは伝えられてきた。その信仰にかけてきた生月島の人々の熱量に、私はたびたび畏敬の念を覚えた。
幕末、黒船来航とともにやってきたパリ外国人宣教会の宣教師らが、改めてカトリックを布教しようと来日すると、長崎や天草で信仰を守ってきた少なからぬかくれキリシタンが、カトリックに復帰した。しかし、生月島の信徒たちはその誘いに応じなかった。
戦後直後の1949年にも、バチカンは教皇の親書を携えたオーストラリア人の枢機卿を特使として差し向けたが、生月島の信徒たちは「転宗できかねる」と拒んだ。近代のカトリックに従えば、生活に根付いた先祖伝来の信仰のかたちを変えざるをえなくなるからである。
なぜ「生月島」は世界遺産から除外された?
登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に属する12の構成資産には、「生月島」の名前はない。信徒が祈りの対象の一つとしている生月島の沖にある殉教聖地は入ってはいるものの、世界遺産登録の旗振り役をしてきた長崎県のパンフレットで、生月島には一か所の言及もない。
現代のかくれキリシタンの存在は、あたかも意図的に「消された」かのように見えるのだ。
名前だけではない。長崎にある大浦天主堂のようなカトリック教会の遺産には、登録を見越して多くの税金が投入され、整備された。それとは対照的に、生月島では殉教者の祠に通じる通路の岩一つでさえ、撤去するのに1年以上を要していた。
どうしてこのような扱いを受けることになったのか。
世界遺産が“ほんとうに大切なもの”を評価したといえるのか。先祖が守ってきた信仰のかたちをひたすらに守ろうとすることは、評価に値しないのだろうか。
――そこにはバチカンからの復帰の誘いを断った生月島の信仰に対する、カトリックの「冷たい視線」があった。この分野の研究の中心にいたのは、カトリック系の研究機関に属する学識者たちで、生月島の信仰を「土俗宗教に変容したもので、キリスト教ではない」という評価を下されてきた。そうした「冷たい視線」が複雑に影響しながら、生月島の信仰が世界遺産から“消された”のではないか。
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