世界が認めた「長崎・天草」の不都合な真実 世界遺産登録から「生月島」が外された理由
その不思議な儀式に立ち会わせてもらった時のことだ。海と向き合う斜面に立つ農家の2階、4畳ほどの日本間で、座した和服姿の古老が、野太い声で祈りを捧げ始めた。
「でうすぱーてろ、ひーりょう、すべりとさんとの みつのびりそうな ひとつのすつたんしょーの御力をもって始め奉る、あんめいぞー」
「オラショ」と呼ばれる祈りの文言には、ポルトガル語かラテン語の響きが濃厚に残されている。ただその意味は、にわかにはわからない。時折、右手の親指で額と胸と肩を結んで、十字架を描く仕草をした。
祈りは45分間、止むことなく続いた。
聖書も聖歌集もない。参照するテキストもなく、その間ずっと、古老の眼差しは壁に据え付けられた木棚の内側に注がれている。そこには「ちょんまげ姿の男」を描いた一枚の絵が掛けられ、照明を当てられていた。お掛け絵は信仰対象を描いた聖画で、島の信徒たちには、「御前様(ごぜんさま)」と呼ばれている。
このちょんまげ姿の男は「洗礼者ヨハネ」だという。ヨハネは新約聖書に登場する人物で、中東の荒れ野を流れるヨルダン川でイエスに洗礼を授ける聖人だ。聖人崇拝のあるカトリックでは聖母マリアに次ぐ重要な人物である。聖書では、その風貌についてこう書き記されている。
「らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた」(マタイによる福音書3章4節)
ちょんまげ姿の男の服装は毛皮ではないものの、着流し風に腰に帯を締めている。たしかに、ワイルドさでは通底するものがある。ただ、頭髪が「ちょんまげ」だったりするあたりに、拭えない違和感もあった。
その違和感の一つひとつに、私は少なからず好奇心をかきたてられた。クリスチャンの家に育ったとはいえ、このような信仰形態が続けられているなんて、ほとんど知らなかったからだ。
バチカン教皇に逆らった生月島のキリシタン
フランシスコ・ザビエルが薩摩(鹿児島)に上陸したのは1549年。生月島はその後、イエズス会が初めて民衆の一斉改宗を行った地域である。
17世紀に入って禁教が始まると、島にある4つの集落で、それぞれ数十軒ごとに「津元」と呼ばれる信仰組織ができて、信仰対象の聖画(御前様)にオラショを捧げる儀式が守られてきた。しかも、オラショは「音」だけを頼りに受け継がれた。迫害が激化するなかで宣教師は処刑・追放され、参照すべきテキストも残されていない。
そうした経緯があるために、現在の信徒たちは、祈りの文言の「意味」をほとんど理解していない。ただ、そこにはキリスト教伝来当時の文言が、確かに残されている。
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