40歳、供養業から農林業に到達した男の悟り 職業による自己実現が人生の目標じゃない

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変わったのは、中学を卒業して高校に進学するまでの春休みだ。このままではマズいと、滅多に強い介入をしてこない父が動き、山崎少年に1泊つきの1人旅をする課題を課した。嫌で仕方なかったが、与えられたJR時刻表を手がかりに、1人で行き先を調べて宿をとり、周囲に聞き込んで電車を乗り継ぎ、どうにかノルマをクリアした。そこで人の親切に触れたことで人嫌いを解消し、コミュニケーションの魅力に覚醒する。

高校生活では接客のアルバイトを楽しめるようになっていた。進学した大学は福井県にあり、地元を往復するバイクの道中、峠にいたる国道で雪に降られバイクが進まなくなったことがきっかけでヒッチハイクもするようになった。ひたすら手を上げて、いつか出会える厚意と親切を待つ。そのスリルが楽しく東京への就職活動にもヒッチハイクを使っていた。

大学はバイト三昧の日々。ピザ配達からカニ料理名物旅館の従業員、イベント業スタッフまで、とにかく手当たり次第働いた。とりわけ地ビールレストランのホール係への入れ込みようは、卒業後の就職まで真剣に検討するほど。就職氷河期という言葉はどこ吹く風で、4年生の頃には福井に根をはって生きるイメージが相当具体的になっていた。

が、それを聞いた父が再び動いた。

「社会勉強に海外を見てこい」

「『お前は視野が狭い。世の中は広い、社会勉強に海外を見てこい。就職してもいいが家族を捨てるくらいの気持ちでよく考えろ』と言われました」

家族を大切に考える山崎さんにとって、それは二者択一ではない。当時付き合っていた彼女とは卒業直後の結婚も視野に入れていたが、脳内のレールを撤去するしかなかった。

大学を卒業してから実家に戻り、バイトで海外渡航の資金を貯めること3カ月。同学年が社内研修を終えて配属された部署へ徐々に慣れていっている頃、山崎さんは機上の人となった。ワーキング・ホリデービザが降りるオーストラリアを当面の目標地として、ひとまずはシンガポール空港へ。あても終わりも何もない。父からは「片道切符で行け。骨は拾いに行ってやる」とだけ言われた。

海外を渡り歩いた期間はトータルで1年半になる。それまで日本には一度も戻らず、各地で海外のバックパッカーと部屋をシェアしながらバイトして生活していた。そして、「あの国のあの島が面白いよ」と聞いたらバックパックを担いでその地に向かい、新たなウワサを耳にしたらまた向かう。旅先で出会った人たちの国も訪ねた。最初は言葉もまったくわからなかったが、相手は人だ。頑張って感情や意図を読めばコミュニケーションがとれないことはない。とにかく毎日が刺激的で楽しかったと振り返る。

「ずっとおカネはなかったですけど、それでも楽しめるのが人なんですよね。逆に、人がいないと旅は成立しないかもしれない。だから本当に楽しかったし、不安も何も感じなかったですね」

当初は3カ月程度で帰国するつもりだったが、遠距離を続けるうちに彼女に愛想を尽かされてしまった。するともう日本に急いで戻らなくてはならない理由はない。これまで培ったどこでも生きていける能力への自信もあった。スリルと新鮮なコミュニケーションが続く毎日が楽しく、いっそ定住しようと思ったこともあった。

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