にもかかわらず戻って来たのは、海外生活のなかで日本人としてのアイデンティティを強く自覚したからだという。自分は日本人だ。日本の文化にかかわる仕事がしてみたい――。2001年の年末に帰国する。
帰国後は実家を拠点に、越前まで和紙職人の人に会いにいくなどひたすら日本の伝統文化に触れる日々。その頃、父は新しい取り組みに燃えていた。祖父の闘病をきっかけに遺骨を納める新たな道具の開発を考えるようになり、食事などのたびに「東京芸大の友人にデザインしてもらう」「今日は清水焼の窯元と打ち合わせした」と楽しそうに語っていた。
父親と立ち上げた手元供養専門店
「話しぶりも内容も面白そうだなあ……と。伝統文化にくわえて葬送文化にも関われる。で、『俺もやりたいっ!』と手を挙げました。まさか父と一緒に仕事するなんて、そのときまで自分も父も兄弟も思っていなかったですよ」
そうして2002年4月に設立したのが、手元供養専門店の「京都博國屋」だ。ミニ骨壺や納骨ペンダントなど、お墓ではなく手元に置いておける供養の依り代を自社制作して販売する。スターティングメンバーは父と山崎さん、事務スタッフの3人。京都市外れの雑居ビルに店舗兼オフィスを構えて動き出した。
商品開発と小売りを一手に任された山崎さんは、昼間に窯業試験場で試作品の具合を調べで、夜には問題点の改善策を検討しつつ、ネットショップ運営のノウハウを学ぶなど多忙な日々を過ごす。社員として毎月給与は出たが16万円スタート。楽な生活ではないが、望む仕事に打ち込めて毎日は想像したとおりに面白かった。
「納骨オブジェなどのフタがスポッとはまるようにするため、乾燥しないで体積も変わらないような素材を必死で探したりしていましたね。最終的にシリコンがいいということになって、自分たちで実用新案を取りました。すべてゼロからでしたが、だからこそ楽しかったですね」
しかし、何年も勤めていると次第に息が詰まってくる。3人の職場。仕事上外部の人との交流も盛んだったが、ベースとなるコミュニティがどうにも狭かった。
フラストレーションを解消するべく、プライベートでは同世代の多彩な職業人が集まるコミュニティをつくり、50人規模の花見を開いたり、普段は非公開の寺院を借り切ってお茶会を開いたりした。
幹事役は昔から得意で、イベント企画も学生時代のバイトで塩梅がわかっている。とにかく同僚や先輩のような、社会人的な付き合いができる新鮮な空気が欲しい。そう思って会を重ねるうち、その後、結婚する女性とも出会った。面識はなく、イベント告知に使っていたmixiで「今度のお茶会はいつあるんですか?」と連絡をもらったのがきっかけだったという。
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