40歳、供養業から農林業に到達した男の悟り 職業による自己実現が人生の目標じゃない

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筆者が山崎さんと名刺交換したのは、この黎明期を抜けた2014年秋頃だ。37歳。この頃には「ここでやるべきことはやれたかな」という思いが脳裏をかすめていたという。

関西事務所の契約者数は200人を超え地域に浸透した感があったし、法人としては次のフェーズに向かう過渡期を迎えている空気もあった。父に言われた「お前は組織を知らない」に対する答えは十分に出せたし、葬送供養を含む日本の伝統文化にも納得できるまで関われたと思う。そのなかで生命の儚さも実感した。では、この先自分は何をしたい? 自分は何をやりたい?

「父や井上さんや法人のコンサルタントの先生、関わりのあった宗教者や同世代の仲間などいろいろな人から刺激を受けて、ライフスタイルを変えていこうという思いが強くなっていたんですよね。それで突き詰めてみると、おカネをガンガン稼ぐより、自分でモノを作って消費していきたいなと。自産自消で食べていけるような生き方に惹かれていることに気づきました」

行き着いた答えは1次産業だった。農業を生業にしよう。そのための準備が必要だ。

3人目のお子さんである長女が誕生する直前の決断だったが、妻も農業に関する講座を徹底的にリサーチするなど全面的にバックアップしてくれた。週末に通える農業学校に入学すると、平日は法人の仕事で関西と関東を往復して土日は学校で学ぶ日々が始まった。

理解の深いパートナー

その当時の様子を妻は「身も心も本当に疲れ切ってみえた」と振り返るが、山崎さん自身は「面白い時期でした」と笑う。何しろ、結果を出して長年のコンプレックスを解消した後に道が開けた時期だ。進んでいる実感があるから、疲れていてもモチベーションはどんどんわいてくる。

ただ、この道は伴侶が違えば進めなかったことも自覚している。妻はみずから「仕事人間」と自認する産科麻酔科医。新たな技術を学ぶために名古屋の病院を頻繁に行き来していたときは、山崎さんが育児の中心になって家庭を支えた。そうやって収入とマンパワーを柔軟に出し合いながら生活することに理解の深いパートナーだ。

「僕は本当に人に恵まれている。妻がいなければこんなには自由には動けなかったですし、法人も辞めていたかどうかわかりません」

2016年12月、6年勤めたエンディングセンターを去った。関西事務所の契約者数は350人に達していたという。

ここから変化のスパンが一気に短くなる。

最初の1年。農業を始めるための一定の知識と技術は学校で学んだが、土地と十分な道具はまだ手元にない。まずは貸し農園の管理業務と露地栽培、ハウス栽培の農業バイトを3つ掛け持ちして、実績と経験を積もうと考えた。しかし、季節が一巡したところで自分は営農には向かないと気づく。

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