そうやって精神の均衡を保っていたが、職場での父子の関係がギクシャクしてきた。親子とはいえ経営者と従業員、小さい会社ゆえの何でもしないと回らない状況に、求められる要求に応えきれない日々。父からはよく「お前は組織を知らない」と言われた。日進月歩で進むネットショップの技術更新や終わりのないメール対応に募るストレス。血縁ゆえに距離の置き方も難しく、口を開けば衝突ばかりするようになっていた。
2008年に結婚し、1年後には長男が生まれたが、プライベートでも初孫を囲んでの団らんも和気あいあいとは言えない状態だった。
このままではいけない。とにかく現状を打破しないと親子関係が壊れると思い、8年勤めた職場を去ったのは2010年5月のこと。先のことは何も決めていなかったが、父から餞別として計画中のNPO法人を譲り受けたため、社会的な肩書に空白期間は生じなかった。
NPO法人・エンディングデザインの会。2000年頃から普及しだした樹木葬(※樹木をシンボルにした共同墓地のこと。継承者なしでも契約できる)を扱うために設立した法人だったが、山崎さんの手に渡り、死生に関する勉強会やセミナー開催を中心に据えた組織に方向転換がなされた。
あるのは行動力のみ
固定収入の当ては何もなく、あるのは山崎さんの行動力のみ。これまで培ったノウハウからメディアや関係各社にプレスリリースを打ちまくったが、反響は悲しいくらいなかった。開催した勉強会にほとんど人が集まらず、理事をお願いした友人が席を埋めに駆けつけてくれたこともある。映画『おくりびと』が上映されたのが2008年。終活という言葉が生まれたのが2009年。2010年当初の日本は、まだまだ元気なうちから死後のことを案ずるのは縁起でもないという風潮が強かった。
「周ちゃん辞めたんだって? なら一緒にやろうよ」
そのとき手を差し伸べてくれたのが樹木葬の大家でノンフィクション作家の井上治代さんだ。自ら運営するNPO法人エンディングセンターでは樹木葬の一種である「桜葬」を手がけており、その関西拠点を山崎さんにお願いしたいと真剣に話してくれた。二つ返事で入社させてもらう。
「東京では新規にオープンしたらほぼ即日完売くらいの反響でしたが、関西では『樹木葬って何?』というところから広めていく必要があって、その温度差にスタートから苦労しましたね。プレスリリースを打ったり、地域のNPO法人に説明に行ったり、とにかく草の根でやるしかなかったです」
関東本部の勢いには敵わないものの、努力の甲斐あって、事務所を開いてから新規契約が途切れる月はなかった。契約する人たちは、お墓を引き継ぐ相手がいないからと将来を見据えた独り暮らしの年配者や、余命宣告を受けて急いで身支度に動いた人など多種多様。手元供養は残された遺族の視点に寄り添うことがほとんどだったが、樹木葬は亡くなる本人とともに歩む感覚が多かった。「僕が死んだら、山崎くんが埋めてよね」と笑顔でお願いする契約者も1人や2人ではなかった。
「ウチの事務所では納骨作業を外注せずに、あえて僕がやっていました。墓穴を掘るって言葉があるけど、本当にやる人はもう滅多にいないでしょ。僕くらいちゃうかなって思いながらやっていました(笑)」
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