ぼうぼうのまゆ毛をからかわれて、甘ずっぱい恋愛の喜びと苦しみを知ることなく、姫君の物語に幕が下りる。が、不思議なことに悲しさも、みじめさもなく、なんだか気分爽快にすらなる。つねに感情移入できるのが唯一の取り柄である私だが、姫君に同情することなく、笑いをこらえながら物語を読み進んだ。それは、彼女がそういうことを一切気にしていない不思議ちゃんだからだろう。
姫君は自分と同じ思考を持つ人と一度も出会わず、親でさえその常識から外れた生き方に理解を示さなかった。そでれも、わが道を突き進む彼女は孤独ながらも、寂しくはない。
常識と非常識が隣り合う「逆さま」の構造
「そんな噂が広まったら困るでしょ」とまともなことを親から言われたときに、姫君は「くるしからず(どーでもいい!)」、ときっぱり当時の常識を覆す。カッコイイ!! 純粋な心で好きなことに向き合って、周りのノイズを一切気にしない芯の強さ。その魅力は作品の中で輝きを放っている。
実は、この物語は「蝶めづる姫君」への言及から始まる。このもう一人の姫君は、世間一般の常識的な姫君の典型であり、王朝的な美徳を象徴する存在。物語の中で2回しか出てこないが、その存在感は意外と薄くない。
一方で「虫めづる姫君」という題名にもかかわらず、本文中には一度もこの言葉は出てこない。蝶めづる姫君の存在を前提にして、読者は「虫めづる姫君」と呼ばれるべき女性の存在を知ることになる。つまり、蝶をめづる姫君なくして虫めづる姫君は作品世界の中に成立しないわけである。
常識の隣に非常識が住み、まっとうな姫君の隣に常識を逸脱している姫君が住んでいることで、「逆さまの構造」が出来上がる。そして、「虫めづる姫君」は常識から外れているかもしれないが、彼女には知恵や情があり、自立や楽しさもある。そういう人生の歩み方もあるんじゃないか、と永遠に名前が失われた作者が私たちに教えたかったのかもしれない。
仏教に関連した内容が含まれていることや、文章のスタイルなどからは作者は男性だという説が有力とされている。でも紫式部や清少納言のように、漢文もお手の物、深い知識を持っている貴族の女性も平安時代にはいた。
自室に戻り、お歯黒を落として、一瞬ホッとした女性がこの物語を思いついたということはないのだろうか。毎日何枚も着物を着こなし、髪の毛を完璧にセットして、化粧もばっちりし、親や夫の言いなりになって送る人生。創造の世界の中だけでも、完全に自由になれるならば何ができるのだろうか……と白い歯を光らせてある女性が筆を走らせたのかもしれない。
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