拙著『世界一孤独な日本のオジサン』の出版に合わせ、日本の中高年男性の孤独についての記事を何回か書いてきた。
お寄せいただいたご意見や周囲の男性たちの反応はおおむね、①「自分は孤独ではない」②「将来の孤独をとても心配している」③「余計なお世話だ」「ほっといてくれ」「孤独の何が悪い」の3つのパターンに分かれる。つまり、「自分は今、孤独である」と吐露する男性はあまりいない。
中高年で、「孤独ではない」と堂々と言い切るのは、フリーランス、起業家などの非サラリーマン、お金持ち、転職経験者、趣味などを通じて仲間がいる人が多い。一方で、「とても心配している」と声をそろえるのは、都市に住む大企業、中小企業のサラリーマンだ。そして、「孤独は楽しむもの」「独りのほうが楽」「どうせ死ぬときは独り」と言うのが3つ目のタイプで、「孤独」を肯定的にとらえる声が少なくない。
「最も優れた人々は孤立を選ぶ」とはいうが…
高名な哲学者ショーペンハウアーは「最も優れた人々は孤立を選ぶ」と論じた。実際に、「非常にインテリな人は一人のほうが幸福である」という研究もある。しかし、そういった少数の人を除き、多くの人にとって「孤独」は「毒」であり、人々の生きる力を奪うものという考え方が海外では一般的だ。
「孤独」とはそもそも、「頼りになる人や心の通じ合う人がなく、ひとりぼっちで、さびしいこと(さま)」を指す。「孤」は「みなしご」を意味し、誰にも頼れず、精神的に「孤立」し、主観的に苦痛を覚える状態のことだ。一方で、日本では、「独りで独自」の時間を過ごし、楽しむことをも「孤独」ととらえている節がある。
英語では、ポジティブな意味合いの「Solitude」(個人が能動的・自発的に一人を楽しむこと)と、ネガティブな「Loneliness」(自らの意思に反して、疎外感や孤立感を味わうこと)とに分かれているが、日本語では、「個独」という「良いこどく」と、「孤独」という「悪いこどく」がひとくくりになり、結果として、「孤独」が美化されているきらいがあるように感じる。
フィギュアスケートの羽生結弦選手も「孤独」との戦いの末に勝ち取った金メダルと形容されたが、時として自分を追い込み、壮絶な苦しみを乗り越えることによって、頂点に到達することができたということだろう。ただ、彼とて、ずっと「孤独」であったわけではない。多くの人が彼を支え、この偉業は成し遂げられた。
「孤独」は時として、人を高みに導くが、怖れるべくは、常態化した「孤独」だ。
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