戦国の合戦「最大の番狂わせ」はどれだったか 信長、家康、信玄…「まさか」は、あの戦い?
Q4. では、戦国「最大の番狂わせ」は何でしょう?
厳密には戦国の戦いではないかもしれませんが、大坂の陣での真田幸村(信繁)こそ、間違いなく「最大の番狂わせ」の1つです。
豊臣と徳川の決戦となった大坂の冬の陣では、圧倒的優位に立つ徳川家康が、当時まだ無名だった真田幸村という1人の武将に翻弄される「大番狂わせ」が起きました。
関ヶ原の戦いで政権を掌握し、江戸幕府を開いた家康は、恭順の姿勢をみせない豊臣秀頼に対し、慶長19(1614)年、20万もの兵で秀頼の居城である大坂城(大阪府大阪市)を包囲しました。豊臣方の軍勢は、関ヶ原で敗れて改易となった旧大名や牢人衆ばかり。とうてい家康の軍勢にはかなわないと思われました。
とはいえ、秀吉が生前、心血を注いで築き上げた大坂城の守りは鉄壁にちかく、攻略は容易ではありません。ただ、百戦錬磨の家康は、城の外周部にある唯一の弱点を知っており、そこを集中して突けば勝利できると考えていました。
しかし結局、家康は大坂城を攻略できなかったのです。それは、城の弱点に気づいた豊臣方の真田幸村が、これを逆手に「真田丸」という強固な砦をこの地点に築いたためです。
このため、徳川勢の猛攻はことごとく撃退され、ついには家康に大坂城の攻略をいったん断念させるという「大番狂わせ」となったのです。
真田幸村、「番狂わせ」から永遠のヒーローに
大阪冬の陣の翌年、家康は再び大坂城を包囲する大坂夏の陣を起こします。このとき、大坂城は家康によって堀を埋められて裸城も同然。家康の勝利を疑う者は誰もいない状況でした。
しかし、ここでも真田幸村が活躍します。こうした圧倒的に不利な状況のなか、決死の突撃で家康をあと一歩のところまで追い詰めるのです。これは家康にとっては、勝ち戦のはずが首をとられる「あわやの大番狂わせ」となるところでした。この大波乱を巻き起こしたすえ、幸村はついに悲運の最期を遂げました。
戦いを自らが主導するのは、実質的にこの大坂の陣が初めてだったにもかかわらず、歴戦の猛者である家康を終始にわたり苦しめ続けた幸村。その奮闘は戦後、敵側である徳川方の諸将からも称賛されました。
さらに、彼の活躍は後世、さまざまな物語の中で描かれた結果、いまなお幸村の名は「英雄」として語り継がれています。
戦国の合戦に限らず、日本史には思わぬ「番狂わせ」から時代が大きく変わっていくエピソードが数多く存在します。
日本史を学ぶことは、「ある特定の事実を知る」ことだけでなく、「その背景を見る目、物事を深く考える視点」も同時に養ってくれます。ぜひ、日本史を学び直すことで、大人に必要な「教養」と「思考力」をいっきに身に付けてください。
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