戦国の合戦「最大の番狂わせ」はどれだったか 信長、家康、信玄…「まさか」は、あの戦い?

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関ヶ原の戦いで石田三成が描いた大勝利の構想は、「番狂わせに次ぐ番狂わせ」で瓦解しました。

関ヶ原の戦いは「番狂わせ」だらけ

【三成から諸将が続々と離反】石田三成vs.徳川家康 ~関ヶ原の戦い~

豊臣秀吉が死ぬと、徳川家康は政権内で横暴な行為を繰り返すようになりました。これに対して、石田三成ら政権中枢にあった大老・奉行の多くは、強い反感を抱きます。

そして慶長5(1600)年、彼らはついに家康の排除を画策し、家康が会津討伐のために大坂を離れたすきに、大規模な挙兵を行います。挙兵の名目は、「公儀(豊臣家)」に背いた「逆賊・家康」の討伐です。家康と戦う大義があった三成は、家康を「豊臣家の敵」だと糾弾すれば、全国の諸大名が呼応してくれると思ったのです。

しかし、豊臣政権に属する全国の大名に大動員を命じても、思うように兵が集まりません。豊臣恩顧の大名でも、三成を嫌悪する者も多く、彼らは家康方についてしまったのです。これが三成にとっての「最初の番狂わせ」でした。

それでも兵をまとめた三成は、家康の軍勢と美濃関ヶ原(岐阜県関ケ原町)で決戦となりました。逆賊・家康を相手に大義があった三成側が当然、優勢と目されていました。

ところが、ふたを開けてみれば、戦いはわずか半日で家康の勝利となってしまうのです。これは、三成にとってさらに番狂わせが発生した結果でした。よく知られているとおり、小早川秀秋や吉川広家といった石田方の諸将から、離反者が相次いだのです。

こうして石田方の軍勢は崩壊状態となり、敗れた三成はあえなく処刑されました。

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