戦国の合戦「最大の番狂わせ」はどれだったか 信長、家康、信玄…「まさか」は、あの戦い?
もう1つ、「順当」な結果に終わったケースが、足利義昭vs.織田信長の「槙島(まきしま)城の戦い」です。
室町幕府最後の将軍・足利義昭が、織田信長に「無謀な戦い」を挑み、幕府を滅ぼすことになった戦いです。
天正元(1573)年、義昭は信長に反旗を翻し、槙島城(京都府宇治市)で挙兵します。
当初は信長の協力で幕府の再興を果たした義昭ですが、実際は信長の傀儡(かいらい)にすぎなかったことから、これを恨んで「番狂わせの一発逆転」を狙い、全国の大名にも信長打倒を呼びかけます。そして、本願寺をはじめ武田・朝倉・浅井氏らによる一大包囲網を築きました。
しかし、最も頼りにしていた信玄が病に斃(たお)れたこともあり、足利勢は息を吹き返した信長勢に「瞬殺」されて、「番狂わせ」はなりませんでした。その結果、義昭は京都から追放となり、足利幕府は終焉しました。
信長を襲った「番狂わせ」の連鎖
Q2. では、実際にあった「番狂わせ」にはどんなものがありますか?
まず思い浮かぶのは、「あの歴史的英雄」にまつわる戦いです。
織田信長のような有力大名が、民衆勢に敗れるという「番狂わせ」がありました。
当時、信長は隣国の美濃(岐阜県)を平定し、足利義昭を奉じて将軍に据えて、天下の実権を握った状態でした。さらに、姉川の戦いで浅井・朝倉の連合軍を破るなど、飛ぶ鳥を落とす勢いでした。
そんな元亀2(1571)年、長島(三重県桑名市長島町)の一向一揆に弟を殺された信長は、5万の兵で長島に出陣します。しかし、一揆勢の抵抗を前に、有力部将が死傷するなど手も足も出ません。結局、撤退を余儀なくされました。
一揆側が、信仰の総本山である石山本願寺から鉄砲を大量に供与されていたことや、作戦面でも的確な指導層が来援していたことなどが敗因でした。
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