戦国の合戦「最大の番狂わせ」はどれだったか 信長、家康、信玄…「まさか」は、あの戦い?
今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。
Q1. 戦国時代の戦いは「番狂わせ」ばかりだったのですか?
いいえ。いくら「下克上の世」とはいっても、そう頻繁に奇跡的な「番狂わせ」があったわけではなく、いわば「順当」な結果に終わるケースが一般的でした。
たとえば、戦国の戦巧者が同じ場所で5回も対戦したことで名高い、川中島の戦いです。
安易に「番狂わせ」を狙っても…
それまでずっと引き分けてきた上杉謙信と武田信玄による因縁の対決は、ついに謙信が勝機をつかんだかにみえました。
永禄4(1561)年、信州川中島(長野県長野市)では、謙信と信玄の北信濃をめぐる4度目の戦いが繰り広げられていました。
互いに相手の手の内をよく知る宿敵同士。謙信は敵の別働隊が背後から奇襲してくる、いわゆる「啄木鳥(きつつき)の兵法」を察知し、その夜密かに、兵が手薄となった信玄の本陣前に迫ります。そして、朝靄(あさもや)が晴れると同時に総攻撃を開始して、信玄をあと一歩のところまで追い詰めました。
「ついに川中島の戦いに決着がつくのか!?」と思われたところへ、武田別働隊が遅れて駆けつけます。これによって形勢はにわかに逆転。謙信も味方を半数近くも失うなど、またも戦いに決着はつきませんでした。両者は3年後に再度、5度目の対決で相まみえることになります。
のちに戦国の覇者となる徳川家康も、その昔、戦国最強とも称される武田信玄から番狂わせの金星を狙って、逆に地獄を見たことがありました。
元亀3(1572)年、後北条氏と同盟を結んだ信玄は、ついに織田信長打倒を掲げて、家康の領有する遠江(静岡県西部)へと侵攻を開始しました。
家康は信長からの援軍とともに、浜松城に籠城します。すると、武田軍は城をまるで無視して、そのまま軍勢を家康の本拠地である三河(愛知県東部)方面に進める姿勢を見せたのです。
これを見た家康は、チャンス到来とばかりに追撃に出たところ、三方ヶ原(みかたがはら・静岡県浜松市)で待ち構えていた信玄のわなにはまり、散々に蹂躙(じゅうりん)された揚げ句、命からがら城へ逃げ帰る結果となりました。
リスクの高い城攻めを回避する信玄の巧妙な策略に、家康はまんまと引っ掛かり、「番狂わせの狙い」は失敗に終わったのです。
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