関ヶ原の戦い「最も不運な武将」は誰だったか 勝ったのに「残念すぎる末路」は、あの人?
京都の喧騒を「裸足の女性」が疾走する珍百景
慶長5(1600)年9月17日、京都の市中では2日前に美濃国関ヶ原(岐阜県関ケ原町)で起きた合戦の話題で持ち切りでした。そんななか、それをかき分けるように大通りを御所の方へ足早に走り去る1人の女性の姿がありました。
よく見ると、彼女は高貴な衣装を身にまとっていながら、足元は「裸足」のまま。慌てた様子はかなり奇妙でした。
そして何より驚くのは、その女性は誰もが知る有名人で、いまは亡き太閤、豊臣秀吉の正妻である「高台院(北政所、ねね)」その人だったことです。
彼女が御所に向かった理由は、合戦の余波から自らの住む屋敷(京都新城)が焼き打ちされるという噂に驚いたためでした。まもなくそれがデマと判明すると、彼女は数日後に御所から帰宅しました。
この顚末は、当時の貴族らによる記録に残されています。直接の当事者でないにもかかわらず、風評に動転し、裸足で京都を疾走する羽目になった高台院は、少々気の毒です。
関ヶ原の戦いでは、こうした「気の毒な目」にあった人、「報われない末路」を迎えた人が、敗北した西軍大名のみならず、勝者の側にも少なくありません。
そこで今回は、関ヶ原の戦いで「最も不運で、気の毒な目にあった武将」「一番の貧乏くじをひいた武将」は誰だったのかを解説します。
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