なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか なんと「あの武将」が発案者だった?
天下統一を果たした豊臣秀吉は、国内を掌中にしたことでは飽きたらず、海の向こうの大陸への侵攻を企てる。
この「文禄・慶長の役」と呼ばれる外征、いわゆる「朝鮮出兵」は、しばしば秀吉の錯乱や妄想といった突拍子もない思いつきだとする解釈も聞かれるが、実際は周到な準備のうえで実行された、壮大かつ本気の構想だったことが明らかになっている。
「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計17万部のベストセラーになっている。
本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「文禄・慶長の役」を解説する。
「中国を征服する」という壮大な計画
織田信長が「本能寺の変」によって非業の死を遂げると、後を引き継いだ豊臣秀吉は、立ちはだかる敵対勢力を一挙に制圧し、ついに天下統一を果たします。
全国の大名は皆、秀吉の臣下となり、これで長い戦乱の世がようやく終わったと誰もが思っていました。しかし、秀吉は「新たな戦い」を挑みます。海の向こうの朝鮮半島へと。
現在、私たちが「文禄・慶長の役」と呼ぶこの戦いは、近年の調査研究により、その全貌が次々と明らかになっています。しかし、「そもそもなぜ秀吉がこのような構想を抱くに至ったのか」については、いまだ謎に包まれたままです。
ただ、戦いの経緯をさらにひもといてみると、「その理由」がおぼろげながら見えてきます。そして、秀吉が出兵に至る過程には「モデルケース」が存在しており、必ずしも「秀吉本人によるオリジナルではない可能性」もあるのです。
今回は、「文禄・慶長の役」をテーマに、その戦いの理由と「真の発案者」について解説します。
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