なぜ豊臣秀吉は「朝鮮出兵」を決意したのか なんと「あの武将」が発案者だった?

「中国を征服する」という壮大な計画
織田信長が「本能寺の変」によって非業の死を遂げると、後を引き継いだ豊臣秀吉は、立ちはだかる敵対勢力を一挙に制圧し、ついに天下統一を果たします。
全国の大名は皆、秀吉の臣下となり、これで長い戦乱の世がようやく終わったと誰もが思っていました。しかし、秀吉は「新たな戦い」を挑みます。海の向こうの朝鮮半島へと。
現在、私たちが「文禄・慶長の役」と呼ぶこの戦いは、近年の調査研究により、その全貌が次々と明らかになっています。しかし、「そもそもなぜ秀吉がこのような構想を抱くに至ったのか」については、いまだ謎に包まれたままです。
ただ、戦いの経緯をさらにひもといてみると、「その理由」がおぼろげながら見えてきます。そして、秀吉が出兵に至る過程には「モデルケース」が存在しており、必ずしも「秀吉本人によるオリジナルではない可能性」もあるのです。
今回は、「文禄・慶長の役」をテーマに、その戦いの理由と「真の発案者」について解説します。
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