関ヶ原の戦い「最も不運な武将」は誰だったか 勝ったのに「残念すぎる末路」は、あの人?
Q5.では、関ヶ原の戦いで「最も不運だった武将」は誰ですか?
それは、やはりこの人でしょう。
徳川秀忠は、徳川家康の3男に生まれ、後に江戸幕府第2代将軍に就任します。
関ヶ原では、徳川氏本隊といわれる約3万の大軍を率い、宇都宮から中山道を通って真田氏(西軍)の信濃国上田城を攻略後、東海道を進む家康の部隊と美濃で合流するよう命じられていました。
この上田城の攻略戦で、兵力に劣る真田氏が卓越した戦術で何日も抵抗を続けたため、秀忠は攻略を断念し、美濃に向かいます。しかし、9月20日に草津に着陣したときには、決戦はすでに終わっていました。しかもその間、徳川家康に到着予定日を返答するのを、「完全にスルー」していました。
家康は、秀忠が「上田攻略を完遂しなかった」うえに「到着予定も知らせなかった」こと(軍紀違反)に憤慨しており、その後、3日間面会を許しませんでした。
これが後世の物語等で曲解、脚色された「遅刻して父親から大目玉」にすり替わり、秀忠の人物像については、いまだ「無能な2代目」のイメージが浸透しています。
一次史料の解読が進み、日本史は「進化」している
徳川秀忠が不運だったのは、かつて百戦錬磨の父親でさえ手を焼いた真田氏の「短期」攻略が、実戦経験の乏しい(ほぼ初陣)彼の手にゆだねられたことでした。もちろん、兵力差のみでそれを克服できるはずもなく、攻略を中止せざるをえませんでした。
また、美濃への西上についても、当初はとくに期日は決められておらず、関ヶ原の戦い(9月15日)は西軍の大垣城撤退(9月14日)にともなう「突発的な合戦」でもあったため、その時点で現地に到着していなかった秀忠が、戦いに参加するのはまず不可能でした。
近年の日本史は、新たな歴史的史料の発見のほか、「当時の記録(一次史料)の解読・研究」の著しい成果により、これまでの認識の多くが、大きく変化を遂げています。
みなさんが学校で学んだ歴史よりも、日本史は「進化」しています。ぜひ「最新の日本史」を知ることで、「大人に必要な教養」から「歴史を知る楽しみ」までをいっきに体得してください。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
無料会員登録はこちら
ログインはこちら