関ヶ原の戦い「最も不運な武将」は誰だったか 勝ったのに「残念すぎる末路」は、あの人?

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「不運な末路」をたどった人としてまずあげられるのは、家康が今川氏の人質となっていた幼少期から苦労を共にし、仕え続けてきた「股肱之臣(ここうのしん)」である鳥居元忠です。

【東軍に属し戦死】鳥居元忠(1539~1600)下総国矢作 4万石 → (息子の忠政が継承し)陸奥国磐城平10万石

鳥居元忠は、関ヶ原の前哨戦となった「伏見での籠城戦」で、わずか2000余りの兵とともに、10倍以上の敵(西軍)を相手に、昼夜十数日にわたる激しい銃撃による猛攻に耐えました。

しかし、奮闘の末、元忠は豊臣家の鉄砲頭、鈴木重朝(しげとも)に討ち取られ、伏見城は陥落します。元忠は、この戦いで東軍所属ながら戦死した、ごく少ない例の大名でした。

この戦いでは、元忠をはじめ徳川勢は800人余が戦死した一方、西軍も3000人以上が負傷する激戦となり、焼け残った城の床材は、京都の養源院(天台宗/京都市東山区三十三間堂前)等で再利用されて、現在も「血天井」の名で知られています。

恩知らずじゃなかった小早川秀秋

【死人に口なし】小早川秀秋(1582~1602)筑前国名島 52万2500石 → 備前国岡山 57万4000石

小早川秀秋は、冒頭で紹介した豊臣秀吉の正室、高台院の甥に生まれ、後に豊臣秀吉の養子(後継者候補)となりますが、「豊臣秀頼の誕生」によって、毛利家の名門、小早川家に再度養子に送られました。

関ヶ原では、はじめ西軍に属し、伏見城攻めに参加しますが、その後は西軍の主将である石田三成の命令に反する行動をとるなど、不信を買います。

そして本戦時には、勝手に松尾山に陣取ると、ついには正式に東軍へと寝返り、これをきっかけに西軍は壊滅しました。

実は秀秋は、秀吉政権下で所領を没収され、家康が所領の回復を実現してくれたことがありました。関ヶ原での寝返りは、そのときの恩義に報いる行為でした。

しかし、世間からは「豊臣の恩を忘れた卑怯者」と嘲笑され、その2年後に彼が21歳で病死してなお、「敗死した西軍諸将に祟られ狂乱した」などと辛辣に叩かれ、現代でも「裏切り者」の代表格たる汚名を着せられたままです。

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