戦国の合戦「最大の番狂わせ」はどれだったか 信長、家康、信玄…「まさか」は、あの戦い?
織田信長にとって「最も番狂わせ」だったのは、その生涯を閉じることになった「本能寺の変」でしょう。
最も信頼を置いていた家臣に裏切られた織田信長
天正10(1582)年、最大の脅威だった甲斐(山梨県)の武田氏を滅ぼし、天下統一に邁進する信長は、続いて中国・四国地方の制圧に本格的に着手しました。しかし、出陣を前に貴族との会合のため京都に向かったところ、宿舎である本能寺を襲撃され、まさかの落命となります。
襲ったのは明智光秀。信長にとっては、秀吉とともに最も信頼を置いていた家臣でした。何度となく危険な戦場を生き延びてきた信長にとって、ここで家臣の手に落ちることになろうとは、夢にも思っていなかったことでしょう。
こうして手に入れた明智光秀の天下も、わずか11日でついえる「番狂わせ」に終わりました。
本能寺の変後、光秀はすぐさま信長の本拠である安土城を奪って、近江(滋賀県)をおさえます。この前後の数日間に、光秀は冒頭にも紹介したように諸将に手紙を送るなど、自らが起こしたクーデターを成功させるために、次の手を練っていました。
ところが、事件をいち早く知った秀吉が、「予想外の素早い反攻」に出ます。事件の翌々日には、戦っていた備中高松城(岡山市)で相手方の毛利氏と和睦を結ぶと、またたく間に軍勢を移動させて、和睦から9日後に山崎(京都府大山崎町)で光秀と対峙していたのです。結果、この山崎の戦いで光秀は敗死しました。
秀吉がこんなに素早く行動を起こそうとは、光秀にとってはあまりにも想定外、「番狂わせな出来事」でした。
Q3. そのほかに、有名な番狂わせといえば何でしょう?
私たちがよく知る「関ヶ原の戦い」も、「番狂わせ」続きの戦いでした。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら