反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか

明治新政府が隠した「もうひとつの戊辰戦争」

河井は、新政府軍を追い散らし長岡城の奪還に成功した。沿道の村民や町民の喊声(かんせい)に迎えられての凱旋入場である。通りには酒樽が山をなし、町民たちは長岡勢を接待した。「長岡甚句」が唄われ、藩兵と町民子女がともに踊り、奪還を喜んだと伝えられる。

新政府軍の将兵は、着の身着のままで逃げ回り、多くが討たれた。山縣らは敗兵をまとめて、信濃川対岸の関原まで退いた。山縣の本営は士気が上がらず、高田と三国峠(みくにとうげ)まで撤退し、援軍を待って反転攻勢するという意見が根強かった。

北越戊辰戦争での河井ら同盟軍の勝利は、目前にあったといえる。河井は、長岡城を占領した長岡藩兵と、大黒付近に布陣する同盟軍主力と連携し、残された新政府軍主力を挟み撃ちで殲滅(せんめつ)しようと画していた。しかし、ここで作戦に齟齬(そご)が生まれる。装備の劣る米沢、会津、仙台藩などの諸隊が、取り残された新政府軍主力の反撃に遭い、計画どおり長岡に進出できなかったのである。

長岡城に入った長岡藩兵はわずか600人余りにすぎない。同盟軍主力の合流がなければ、薩長勢の逆襲を阻みきれない。いらだった河井は、前線視察に向かい、城下の新町(あらまち)で左ひざ下に銃弾を受けた。野戦病院に担ぎ込まれた河井は、「俺の傷は軽いと伝えよ」と指示したが、骨折銃創で手の施しようがなかった。

翌28日、ようやく同盟軍主力は城内に入ったが、河井というリーダーを失った小田原評定で追撃作戦が決められない。そこに、戦略上の要港・新潟が新政府軍の手に落ちたという知らせが届き、悲観の色に覆われた。

7月29日、新政府軍が3方から長岡城に迫ってきた。浮き足立つ同盟軍に対して、新政府軍には次々に後続が送り込まれてくる。結局、同盟軍は退却を決定した。

会津藩降伏の翌日に降伏

長岡藩兵は、大半が会津へ向かった。すでに藩主とその家族は最初の落城の際に会津に移っている。長岡藩士と家族らは、近道だが険阻な八十里越えをした。8月1日から7日にかけて、傷ついた藩士や、年寄りや幼児を連れた家族が続々と落ち延びた。8里が80里にも思えることから名付けられた山道には、怒号や婦女子の泣き叫ぶ声が陰々とこだましたという。

河井は、負傷して会津に向かう途中の会津塩沢(しおざわ)で8月16日に亡くなっている。41歳の生涯であった。

東北各地を流浪した長岡藩士たちは、米沢で9月23日に降伏している。会津藩降伏の翌日のことであった。

長岡藩は戦死者340人を出し、100人近い領民が犠牲になった。同盟軍では会津藩、仙台藩、二本松藩に次ぐ戦死者数だが、小藩であることを考えると極めて大きい犠牲である。

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