反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか 明治新政府が隠した「もうひとつの戊辰戦争」

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地元・長岡の「時代行列」に登場した「ガトリング砲」。写真は2017年10月7日、米百俵まつりの様子(撮影:東洋経済新報社出版局)
戊辰戦争といえば、薩摩・長州(薩長)など「官軍」の一方的な勝利というイメージを持っていらっしゃる方が多いことだろう。だが実際は、奥羽越(おううえつ)列藩同盟軍は一方的に負けていたわけではない。
北越(新潟県)方面の戦い(北越戊辰戦争)では、河井継之助が率いる長岡藩を中心に3カ月にもわたって新政府軍を苦しめた。後に明治政府の重鎮となった山縣有朋らにとって不名誉この上ない戦いだった。
このため、「薩長史観」(なぜいま、反「薩長史観」本がブームなのか)では故意に忘却されていったと歴史家の武田鏡村氏は語る。このたび、『薩長史観の正体』を上梓した武田氏に、知られざる北越戊辰戦争について解説してもらった。

傲岸不遜だった「官軍」の司令官

『薩長史観の正体』(書影をクリックすると、アマゾンのサイトにジャンプします)

慶応4(1868)年5月2日、越後(新潟県)小千谷(おぢや)の慈眼寺で劇的な会談が行われた。長岡藩家老の河井継之助と東山道軍総督府(新政府軍)軍監の岩村精一郎(高俊)との会見である。

土佐藩出身の岩村は、後に長州人から「軽率で無思慮」といわれるが、腰の軽い血気盛んな人物であった。弱冠24歳の岩村は、総督の西園寺公望(きんもち)や長州の山縣有朋、薩摩の黒田清隆に従って信州方面から越後に進攻した。その間、岩村は、次々に恭順してくる信州の各藩の対応から傲慢になっていた。「錦の御旗」と「官軍」の前には、恐れるものはない、とばかりに不遜で傲岸な態度であったのである。

河井継之助は長岡藩士で、江戸で佐久間象山や古賀謹一郎らに学び、さらに足を延ばして備中(岡山県)松山藩の山田方谷(ほうこく)が唱える「知行合一」の陽明学と財政再建を学んでいる。長岡に戻ると果敢に藩政改革を断行し、藩を再建した。しかも、連発式のガトリング砲など最新型の兵器を導入し、軍制の近代化を図っている。この結果、長岡藩は表高7万4000石の小藩ながら、10万両の剰余金と洋式軍隊を持つ屈強な藩になっていたのである。

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