反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか 明治新政府が隠した「もうひとつの戊辰戦争」
傲岸不遜だった「官軍」の司令官
慶応4(1868)年5月2日、越後(新潟県)小千谷(おぢや)の慈眼寺で劇的な会談が行われた。長岡藩家老の河井継之助と東山道軍総督府(新政府軍)軍監の岩村精一郎(高俊)との会見である。
土佐藩出身の岩村は、後に長州人から「軽率で無思慮」といわれるが、腰の軽い血気盛んな人物であった。弱冠24歳の岩村は、総督の西園寺公望(きんもち)や長州の山縣有朋、薩摩の黒田清隆に従って信州方面から越後に進攻した。その間、岩村は、次々に恭順してくる信州の各藩の対応から傲慢になっていた。「錦の御旗」と「官軍」の前には、恐れるものはない、とばかりに不遜で傲岸な態度であったのである。
河井継之助は長岡藩士で、江戸で佐久間象山や古賀謹一郎らに学び、さらに足を延ばして備中(岡山県)松山藩の山田方谷(ほうこく)が唱える「知行合一」の陽明学と財政再建を学んでいる。長岡に戻ると果敢に藩政改革を断行し、藩を再建した。しかも、連発式のガトリング砲など最新型の兵器を導入し、軍制の近代化を図っている。この結果、長岡藩は表高7万4000石の小藩ながら、10万両の剰余金と洋式軍隊を持つ屈強な藩になっていたのである。
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