反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか 明治新政府が隠した「もうひとつの戊辰戦争」

著者フォロー
ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小

河井継之助は、長岡藩の「武装中立」を考えるようになる。これは徹底した軍備によってほかからの武力介入を許さずという強固な姿勢を示すことで「中立」を保ち、会津と新政府軍との間を平和裏に和平斡旋しようというのである。

河井は、岩村精一郎らが駐屯する小千谷の慈眼寺に、たった2人の供を従えただけで赴いた。岩村は、左右に薩摩、長州の兵士を侍(はべ)らせて河井と対面した。信州の小藩の家老に対してと同様、こうすれば「官軍」の威光が保たれると思って威圧したのであろう。小藩の長岡藩の家老も、恐れ入ってひれ伏すと高をくくっていた。

ところが河井継之助は、内戦を直ちにやめて、日本国民が一和協力すべきであると説いた。長岡藩は中立の立場を堅持しながら、会津や桑名と和議すべきであると理路整然と説いて、嘆願書を渡そうとした。

だが、岩村は、官軍は朝敵(ちょうてき)を討伐しにきたのであって議論しにきたのではない、と耳を傾けようとしない。河井は幾度も和平を斡旋すると説いたが、岩村は激高して席を立った。

翌日も河井は慈眼寺に赴いて面談を求めるが、まったく岩村は応じようとしない。ここに至って河井は、長岡藩を守るために会津と手を結ぶことを決意した。翌々日の5月4日には奥羽越列藩同盟への参加を表明している。

長州の奇兵隊を撃破

河井は、緒戦の攻撃目標を榎峠(えのきとうげ)に定めた。ここは長岡と小千谷の境となる要地だが、談判成功のため、河井は守備隊を退かせていたのである。

慶応4(1868)年5月10日、強攻する長岡藩はじめ同盟軍に対して、装備も士気も劣る上田、尾張の藩兵はたちまち敗退した。翌日、精悍な薩長軍が来襲して、戦線は膠着状態となる。だが、13日早朝、榎峠を見下ろす朝日山を同盟軍が制して決着をつけた。

このとき、奇兵隊参謀の時山直八(ときやまなおはち)が戦死している。時山は山縣有朋とともに吉田松陰の門下生で、奇兵隊で戦ってきた人物である。

岩村を追うようにして小千谷に入った山縣は、岩村がぜいたくな食膳を前にしているのを見て、土足のまま膳を蹴り上げたという。傲岸不遜といわれる山縣が怒ったのであるが、岩村の振る舞いにはよほど腹に据えかねるものがあったのであろう。

榎峠・朝日山の戦いは、新政府軍にとって初めての敗戦となった。山縣は敗兵を収容して本営を移し、奇兵隊を前面に押し立てた。この後、信濃川を挟んでの砲撃戦が1週間も続いた。山縣は、同盟軍の堅い陣地を抜くことは不可能と見て、柏崎方面から進出した海道軍と合流、小千谷より信濃川下流に位置する長岡城下の側面を強攻渡河して一気に長岡城をつく策を立てた。

折しも、信濃川は雪解けの増水で天然の要害になっていた。だが、新政府軍は船を集め、5月19日の早暁、朝霧を利用して渡河に成功した。同じように河井も、強攻渡河して小千谷の本営を攻略する作戦を準備していたが、1日遅かった。

同盟軍の主力は、朝日山・榎峠に集中している。兵力が少ないため、信濃川の防御力に頼った長岡城下の守りは薄い。城下には老人や少年隊の守備兵しかいない。河井は、自らガトリング砲を操作して応戦した。しかし、衆寡敵せず、敗兵を率いて城下東方の悠久山(ゆうきゅうざん)に退却した。

次ページ石原莞爾も絶賛した巧みな戦術
関連記事
トピックボードAD
キャリア・教育の人気記事