反薩長の英雄「河井継之助」を知っていますか

明治新政府が隠した「もうひとつの戊辰戦争」

落城の憂き目に遭い、ほかの藩ならここで総崩れになるところだろう。だが、河井はここから戦線を立て直している。全軍を、山を越えた盆地・栃尾(とちお)に移動させた後、加茂(かも)に本営を置いた。そして、徐々に新政府軍を押し返し、長岡奪回を目指したのである。

6月1日には、新政府軍本営のある今町(いままち)を攻撃。翌2日には圧勝して、今町を占領した。苦戦を強いられた新政府軍は、狼狽し大きく後退した。今町は長岡城の北方約12kmに位置する。長岡城奪還まであと一歩のところまで進出したのである。

この今町攻略戦で河井は、牽制部隊を主力に見せかけた陽動作戦を採り、敵主力をたたいた。外国商人とも親交の深かった河井は、ナポレオンの軍略も学び、多彩な作戦を展開したのである。後に陸軍参謀・石原莞爾は、陸軍大学の卒業論文のテーマに「河井継之助の戦術」を選び、河井の作戦を絶賛したという。

河井が待ち望んだのは、冬将軍の到来である。ナポレオンのモスクワ退却にならい、持久戦に持ち込もうとした。雪に弱い新政府軍が北越から退けば、和議の可能性も生じる。追撃すれば、寝返る藩も出てこよう。

この戦争で生まれたともいわれる「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉どおり、戦況の行方によっては、同盟軍側が「官軍」となり、薩長が「賊軍」となることもありうる。

同盟軍は今町の戦いで勝利した後、今町と長岡城の中間地点にある大黒(だいこく)付近で新政府軍と対峙した。今町攻略戦の余勢もかって小競り合いにしばしば勝利を収めた。そして河井は、さらに局面を好転させるため、長岡城の奪回を計画。念入りに段取りを整えて急襲作戦を準備した。その間、50日間である。

奇襲作戦で長岡城を奪還

河井が計画したのは、大黒の東に広がる八丁沖(はっちょうおき)といわれる広大な沼沢地を渡って長岡城下に突入し、長岡城を奪還する急襲作戦である。八丁沖は、一面に葦(あし)が茂り、底なし沼や胸まで没する湿地、小川が迷路さながら入り組んでいて、とても人が近づけないと思われていた。その裏をかき、無警戒な敵の目をかいくぐって難所を渡ろうとしたのである。

7月24日夜10時ごろ、河井は、長岡藩の精鋭700人を率いて八丁沖に達した。泥海の中、行軍し、直径4kmの対岸に全体が集結したのは翌25日の午前4時ごろである。夜陰にまぎれて新政府軍主力の背後に回り、喊声(かんせい)をあげて長岡に突入した。同盟軍も一斉に大砲や鉄砲を乱射したので、新政府軍は大混乱に陥った。

このとき、西園寺公望は馬の背を逆に乗って遁走(とんそう)し、山縣有朋は裸で逃げたと伝えられる。

次ページ長岡城の再陥落
キャリア・教育の人気記事
トピックボードAD
関連記事
  • 女性の美学
  • この新車、買うならどのグレード?
  • ソロモンの時代―結婚しない人々の実像―
  • 男性学・田中俊之のお悩み相談室
トレンドライブラリーAD
  • コメント
  • facebook
0/400

コメント投稿に関する規則(ガイドライン)を遵守し、内容に責任をもってご投稿ください。

アクセスランキング
  • 1時間
  • 24時間
  • 週間
  • 月間
  • シェア
トレンドウォッチAD
ZOZOに立ちはだかる<br>「ゾゾ離れ」より深刻な課題

盤石だったZOZOの収益基盤が揺らぎ始めた。常時割引の有料会員サービスで混乱を招いたが、さらに深刻な事態が。今年度の通期業績が上場後初の営業減益になる見通しとなったのだ。上場以来最大の正念場を乗り越えることができるか?