1つ目の転機は、終戦直後の製パン・洋菓子業への参入だ。戦後のコメ不足で、当時の日本ではアメリカが救援物資として放出した小麦を加工し、配給パンが作られていた。そこに目を付けた原田は、1946(昭和21)年には早々と製パン業に参入、学校給食向けや一般顧客向けのパン製造を開始。当時は「原田ベーカリー」と呼ばれた。
さらに、日本人のライフスタイルや嗜好が欧米化していくなか、ケーキをはじめとする洋菓子作りにも進出。こうして、1960年代には、パン・洋菓子・和菓子と3つの商品を扱う地場の食品メーカーとなった。
1967年(昭和42年)には給食パン部門を別会社化(3代目・原田俊一氏と知人が共同出資するパン工場)。これにより、製パン事業の規模は縮小し、和・洋菓子の製造がコア事業となって成長していった。
が、バブル崩壊後に原田は大きな危機に直面する。景気の悪化によって、引き出物向けや贈答品向けを含む菓子の需要が大幅に減少した。さらに、コンビニや大型スーパーの攻勢もあって、業績は年を追うごとに悪化。1997(平成9)年からは3期連続赤字も余儀なくされた。
こうして、いわば会社が危機的状況に瀕しているなかで社長に就任したのが、4代目・原田義人氏だ。大学で建築学を専攻していた同氏はゼネコンに勤務していたが、3代目・原田俊一氏の長女・節子氏(現・専務)との結婚を機に原田に入社。入社当初は畑違いの分野で戸惑うことばかりであったが、洋菓子に関する専門書を読み、菓子職人の講習会に参加するなど、ひたすら勉強。1998年(平成10年)、義父に代わって社長に就任したのだった。
異業種社長が、全国向けにラスク発売
この異業種社長が、会社の命運を懸けて挑戦したのが、全国展開開始と、ラスク「グーテ・デ・ロワ」の発売だった。これが2つ目の転機となる。
「焼きまんじゅう」や「おっきり込み」など独自の食文化を有する群馬県。しかし、菓子文化だけは乏しいといわれてきた地域でもある。
将来的な人口予想を含め、発展性の少ないマーケットでの商売に限界を感じていた原田義人社長と、妻の節子専務は、生き残りを懸けて全国で挑戦していくことを決意。そのとき、勝負していくための商品として選んだのがラスクだった。
「最初は和菓子で勝負しようと思い新商品も開発しましたが、日持ちの面においても夏に弱いという課題がありました。そこで、夏でも強い商品をと考えていった結果、ラスクに到達しました」と、義人氏。
もっとも、戦後から製パン業をやっていたこともあり、パンの特性や扱い方は熟知していた。昔から余ったフランスパンをスライスしてオーブンで加工し、10枚くらいにした袋詰めをレジの横に置いて販売していた経験も、この決断を後押しすることになった。
1999(平成11)年、厳選した材料を使い、ネーミングやパッケージデザインまでこだわりぬいたラスク「グーテ・デ・ロワ」が完成。2000(平成12)年1月には店頭販売を開始すると同時に、自社ホームページを開設して電話とファックスによる通販業務も始めた。
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