この連載では、森友学園問題や加計学園問題をはじめ、連続して政治家や官僚のウソについて取り上げてきました。その後、都議会議員選挙では、自民党が歴史的大敗を喫し、最後の秋葉原での応援演説では、安倍さんの声もかき消されるほどの「帰れ! 辞めろ!」コール、さらに内閣支持率は30パーセントを切り……と、安倍王国の目が覚めるほどの大瓦解を目の当たりにして、もはやこのコラムで問題にする必要はないようです。
と申しますのも、私にとって、わが国のこともわが国民のことも結局はどうでもいいのであり、ただ政治家や官僚などのウソの大隠蔽工作(これ、あくまでも個人的印象です)が無性に気持ちが悪かったので、しばらく書き続けただけ。
「ウソかどうか」ばかり議論される国会答弁の退屈さ
わたしの本来のテーマは、国民の幸福の実現でも、成熟した民主主義の実現でもなく、真理の実現ですらない。そうではなくて、どうして人は「ウソをつくべきではない」と言いつつ、たえずウソをつき続けるのか、というもっと基本的な問題です。
この記事を書いている本日(7月24日)も、国会閉会中審査のテレビ中継を午前9時から午後3時まで(昼休みを挟んで)ずっと見ていましたが、みな「A氏とB氏の発言は矛盾している。どちらかがウソをついているはずだ!」とか、「A氏の発言は、あらゆる点から見て不自然であって、ウソに違いない!」とか、「C氏の発言からは誠意が感じられないから、ウソである」とか、えんえんと議論していて、「ウソをついた!」という形で他人を非難することに終止し、云われた当人も「ウソではない」と弁解するのであって、誰も「なぜ、ウソをついてはいけないのだ?」とか「私があのとき語ったことはすべてウソだ」と発言することはない。あまりにも退屈で、途中2時間も眠ってしまいました。
くだらない、あたりまえじゃないか、と言われるかもしれないけれど、哲学的には全然あたりまえではないのです。「カフカのパズル」と言われるおもしろい問題があります。MはNとの間に契約を結ぶのですが、それはとてもバカげたものに見えますが、しばらく我慢してもらいたい。MはNがある毒(G)を呑んだら、Nの銀行口座に10万円振り込むという提案をし、Nはそれを承諾する。Gは呑むときにまったく苦痛を伴わず、ただ呑んだ後24時間不快な気分が続くだけで、さらに後遺症はまるでない。賢明なる読者は、このあたりで、「こんなバカげた契約があるか!」と叫び出したくなるかもしれませんが、さらなる我慢が必要です。
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