五輪報道が万年「ウルトラ単純構図」の奇妙 なぜ誰もコーチや親への「恨み節」を語らない

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ほとんどすべての選手が「国民に期待される選手像」に収まってしまうのは、確かに不思議なことです(写真:AP/アフロ)

たったいま、リオデジャネイロ・オリンピックの閉会式で、和服姿のあでやかな小池東京都知事が五輪旗を受け取り、それを力強く左右に振りかざす場面を観ました。この場面を自分こそが演じたかった舛添さんは、(もし見ているなら)さぞかし悔しい思いで見ていることだろうと、同情に耐えません。そして、小池さんが手渡された五輪旗を力強く握り締めたとき、あらためて都知事選の勝利をかみしめたに違いありません。

というわけで、リオ・オリンピックも無事閉会、その前の都知事選も小池氏の圧勝で無事終え……いまさら前回に続く「舛添問題」か、と思われるかもしれないので、このテーマは大切に残しておいて、今回はリオ・オリンピックをテーマに選んで、それを「独特の(?)」哲学的観点から解剖しようと思います。

「平和の祭典」の意味を踏み込んで解釈してみる

今回、あらためて感じ入ったのは、人間が「競う」ことが大好きな動物だということ。古代オリンピックにおいては、オリンピック開催期間中、戦闘は休止したという伝統にちなんでオリンピックを「平和の祭典」と称していますが、この意味は相当踏み込んで解釈しなければならない。

オリンピックは、誰ともなるべく闘わない、という文字どおりの「平和精神」を奨励しているのではなく、むしろ「闘いの精神」をそのまま温存して(いや、鼓舞して)、それを異文化の破壊や異民族の殺戮とは「別のところ」に向ける試みと言えましょう。オリンピックがギリシャ発祥であるのも、古代ギリシャには「アゴーン(競い合い)」という精神があり、闘うこと、闘って勝つことが何より称賛されていたからです。

このことは、その後ヨーロッパ世界を支配したキリスト教の教義とは真正面からぶつかる。キリスト教においては、表面上の戦闘性は明々白々であっても、少なくとも教義上、誰ともなるべく闘わないこと、勝つことを望まないこと、勝つことを名誉と思わないことが「よし」とされてきました。

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