前回の東京オリンピックのとき、西洋人の選手がきれいで日本人選手がかっこ悪く(醜いとすら思われ)、その差異に愕然としていましたが、いまや日本選手たちはとてもきれいになった。そして、勝っても負けても、ごく自然体で、とても感じよくなった。
もしかつての東京五輪の、あの女子バレーが金メダルを取り逃がしていたら、自殺者の1人や2人出たのではないかといまでも思われますが、現代の選手はそんな心配は無用という顔をしている。そして、テレビ報道も、自然で感じがよくなった(あの熱血漢の松岡修造以外は)。以前は、何かと思われるくらいに過剰に期待させるような、わざとらしい、大げさな報道が多かったのですが。
しかし、やはりリオ・オリンピックを観戦して、数々の違和感は残りました。まず痛感しますが、こういう平和の祭典であるオリンピックにおいて、本物の戦争と同様、心理状態の劣化ははなはだしい。マイクを向けられると、多くの人が目を輝かせて「感動をありがとう」と語る光景がテレビ画面に映し出されますが、この言葉に如実に表れているように、精神は極めて単純になり、思考は停止し、感受性の複雑な陰影が忘れ去られる。
そして、「とにかく勝つことだ」という本心にぴったり背を寄せて、ついでに、負けるとしても、せめて感動的なドラマに仕立て上げてほしいというあさましい要求が露出してくる。
なぜ親やコーチを「恨む」選手が一人もいないのか
私はあらゆる戦争に反対ですが、その理由は、戦争が人を殺すからのみならず、人の心を単純にし、「とにかく勝つ」という大義名分のもとに、すべての繊細なこと、微妙なこと、正確に語ればたいそう時間がかかること、簡単にどちらとも言えない二義的なこと……などの「真理」が葬り去られてしまうから。すなわち、ロゴスが、哲学が、殺されてしまうからです。
今回のオリンピックという闘いにおいても、期待する選手像が1通りに決まってしまっていて、不思議なほどほとんどの選手がこの理想的選手像の枠内に収まってしまう。どんな選手のインタビューを聞いても、先輩やコーチを尊敬する選手ばかりであり、親や兄弟姉妹に感謝する選手ばかりであり、自分が属する会社や地域社会の応援を喜ぶ選手ばかりです。
なぜか、オリンピックに出場する選手に限って、親を恨んでいる息子や娘はいないようであり、逆に、息子や娘を毛嫌いしている親はいないようであり、とすると、不思議と言うよりほかはない。
それよりもっと不思議なのは、ほかの選手に嫉妬する選手はいないかのようであり、選考の不当を嘆く選手はいないかのようであり、とりわけ、先輩やコーチの理不尽な「指導」に不満を覚える選手はいないかのようだ、ということ。こうした選手がまったく存在していないのなら、それは人間社会ではなく驚くべき非現実的な世界ですが、そんなはずはないでしょう。
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