いまや、築地の東京中央市場の豊洲移転にまつわる不手際で大騒ぎです。豊洲市場の最高責任者である歴代5人もの「市場長」が各建物の下に広がる巨大な地下空洞を「知らなかった」とは、そして(9月下旬の時点で)「誰が」盛り土をやめてこの空洞を造ることを指令したのかわからないとは、怒りを通り越しておかしくてたまらない。これこそ、組織というものの「盲点」ではなくて「笑点」です。
多分、何度も会議を開いて、細部にわたるまで綿密に「検討」したことでしょう。しかし、ポカンと大穴が開いてしまった。私は、これを聴いても何の不思議も覚えなかった。まさに、組織とはこういうもの、その自然な欠陥が全部露出してしまったと言えましょう。
人類は不自然なほどの無責任体制を採用した
近代社会における組織は、官庁や会社をはじめ、病院でも大学でも、「ほんとうのこと」を見ようとしない。チラリと見えても、必死の思いで隠そうとする。マスコミなどが追及の手を緩めずに、じわじわと瀬戸際まで責めて、もうごまかしきれないと悟ったときに、やっと「ほんとうのこと」を小出しにする。われわれは、何度こういう絵に描いたように画一的な構図を見てきたことでしょうか。
極めて興味深いことは、こういう構図は近代法の基本原理である「基本的人権」を背景にして成立しているということです。責任を負わせるには、どこまでも注意深くなくてはならない。かつての魔女裁判・異端尋問をはじめとする残酷な濡れ衣を避けるために、人類は不自然なほどの無責任体制を採用したのです。
このことは、前々回で取り上げた「舛添問題」に典型的に現れていますが、ある不祥事を人から責められて直ちに責任を認めることは、まずない。まずは、「まったくの誤解」であることを「誠心誠意」語る。テレビの視聴者は、画面上で動く舛添さんの表情や身のこなし、口調から「どこかおかしい」と思うのですが、決定的証拠を見いだせない限り、すでに「あきらめる」覚悟もしている。一種のゲームが開始され、すべては直感的・常識的な「おかしさ」とは 別のところで動いていくことを予感するのです。
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