豊洲問題の"紛糾"は「現代型組織」の必然だ 政治家に「公約以上」は期待されていない

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国民は、格闘技を見物するかのように、野党やマスコミの追及を舛添さんがどう「かわす」か、その力量を見てやろうという姿勢になっている。もうこれは慣れっこになっているので、どんなに「おかしく」思っても、公的な裁きは審判の判定に頼らねばならないように、個々人の印象とは別に、法律や証拠によらねばならない、という「教養」を身につけているのです。

そして追及されている者は、いくらごまかしても、いくら人を騙しても、明らかに法律に反していない限り、「法律に反していない」ことを楯にとって、居直っている。そればかりか、自分を責める者を反対に人権侵害と言わんばかりに責め返す。実際、責め返さないまでも、自分は被害者だと言わんばかりの姿勢に早変わりするのです。

法律や証拠にのみ従うというのは、全然尊敬すべき態度ではないのに、そう思い込んでしまうほど、現代人は退化している。いいですか? 「正しい」態度とは、法律や証拠に加えて自分の「良心」に従うこと、単に外形的につじつまを合わせることではなく、内面の叫び声をも聴くことでしょう。たとえ法律上(証拠上)何の問題もないとしても、良心に照らし合わせて、みずから責任を取ることでしょう。

ある「村長」が西洋人学者たちに投げかけた問い

個人のレベルでは、これがまだあるかもしれない。法律的には罰せられず、誰も証拠をつかめないのに、みずから友人や恋人を騙した非を認めて、責任をとるかもしれない。しかし、民事・刑事事件ではこうしたことはほとんど期待できず、なかでも組織にはまったく期待できません。

医療ミスで病院が、いかなる違法行為でもなく、証拠も挙がっていないのに、(内部告発でもなく)病院長あるいは執刀医みずから「良心に照らして」ミスを認めることがあるでしょうか? 企業が、マスコミから追及されているわけでもなく、国民の批判を浴びているわけでもないのに、ただ「良心に照らして」商品検査のごまかしや手抜きを、やくざとのつながりを、認めることがあるでしょうか? 私が記憶している限り、ないのです。

これに関しては、哲学的に興味深い「ウェイソンテスト」と呼ばれるものがあるので、紹介します。統治形態(よく治められているか)を調べるために、西洋人の学者グループがある未開部落に入った。彼らが「村長」と面会し、統治の仕方を聞き出そうとしたところ、村長はこう答えた。

「この村においては『毎朝(痛い)入れ墨をした者に、私はパンを与える』というルールがあるだけだ。これから村民のうち代表者4人を選ぶ。Aは入れ墨をした。Bは入れ墨をしていない。Cはパンをもらった、Dはパンをもらっていない。さあ、彼らのうち2人だけを選んで『入れ墨をしたか?』あるいは『パンをもらえたか?』という質問をすることによって、私が『よい村長』であるかどうかを決めてくれ。ただし、彼らは質問に対して「はい、いいえ」だけで答える。あなた方はどんな2人を、どういう理由で選ぶであろうか?」

なかなか頭のいい村長ですが、大学のコミュニケーション論の講義で、この問題を出したところ、ほとんどすべての学生は正解に至らなかった。まさに村長の「思う壺」にはまってしまったのです。

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