人はなぜウソをつくのか、誰でもしょっちゅうウソをついているのに、なぜ他人がウソをつくと嫌なのか、さらに人は(とくに公の席では)なぜ「俺はウソをついているが、どこがいけないのだ!」と居直らないのか……など哲学的に考えてきましたが、どうもこのところ国会周辺では、あまりに見え透いたウソのオンパレードで、哲学的に分析するのもアホらしくなってきました。わざわざ哲学者が出てゆくほどの意味もなく、もはや「ふつうの人」に任せていいようです。
それに、前回「記述的意味」と「評価的意味」の話をしたところ(森友問題から読み解く人間の「ウソの本質」)、(コメントから推し量るに)ほぼ完全に理解されなかったようで、やはり「ふつうの人」にとって、哲学の議論は理解不能か、完全な誤解か、「机上の空論」として片づけられてしまうのだな、という絶望感を噛みしめました。
「美人」の規準とは
そこで、今回は、「美」の問題を「ふつうの人」にもわかるように、かつ哲学的に論じてみようと企んでいます。というのも、「美」こそ記述的意味と評価的意味との対立が見えやすいところだからですが、この淡い期待も打ち砕かれるかも……。
誰でも知っていますが、「美人」の規準は、時代によって、地域によって、個人によって、さまざまです。これは、「引き目・鉤鼻」の平安美人と、歌麿描くところのうりざね顔の江戸美人と、1960年代のハリウッド美人と、ある未開種族の美人とは、月とスッポンほど違う。これをもって「美」は相対的だと結論づけるのは早計であり、それにもかかわらず、なぜわれわれは「美」という同じ言葉(だいたい同じように翻訳される言葉)を使うのか、と問い直さねばならない。
すると、すぐに思い浮かぶのは、各時代・各地域の典型的な「美意識」が異なっているのだろう、という仮説です。しかし、これは、すぐわかるように全然答えになっていない。というのも、「じゃ、それほど美意識が異なるのに、なぜ同じ「美意識」という言葉を使うのか?」となって初めの問いに戻っていきます。
そこで、それぞれ美意識は異なるが、やはりそれぞれの美意識は、何か同一なもの(美のイデア?)に関わっているにちがいない、といういっそう抽象的な仮定を積み重ねるほかない。
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