「美」という言葉には不思議な普遍性がある なぜ異なる「美人」を同じ言葉で呼ぶのか

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とはいえ、「美」を「美意識」に限定すると、先の問いに対する解決に向けて1歩を踏み出せるかのように思われます。なぜなら、対象の側はさまざまに異なっていても、ある時間空間的な範囲に限定すれば、主体の側の「美意識」は同一なのだ、という想定にすがり付くことができるからです。

しかし、こう考えて安心してしまえば、哲学は必要ありません。ついでですが、「美」という言葉の使用範囲は恐ろしく広く、われわれ現代人は「モーツァルトのピアノソナタ」にも「芭蕉の俳句」にも、「ピラミッド」にも「茶室」にも「富士山」にも「ロダンの彫刻」にも「草間彌生のリトグラフ」にも、それぞれの「美」を見いだす。そして、同じ「美」という言葉を使用する。この手の付けられないほど多様なものに共通の性質としての「美」を求めても無理なことはわかっているけれど、といってこうした怖ろしく多様なものが、それぞれ各人の内に同じ「美意識」を刺激する、と言えるかどうか、少なからぬ疑問は残るでしょう。

しかし、この疑問をぐいと呑み込んで、一応この仮説にそって進んでいくと、ある時代、ある民族Aにとっての美人の典型はXであり、それは別の時代の別の民族Bにとっての美人Yとは恐ろしいほど違い、ほぼ真逆であるけれど、AとBの心の中を覗くと、ともにほぼ同じ「美意識(K)」が生じている、と言える感じがする。

その「美意識」を比べることはできない

しかし、この仮説はポンコツ車のように走行不可能です。まず、AとBの「心の中を覗いて」、その「美意識」を比べることはできない。やはり、AとBの発言や振る舞いから、両者は互いにほぼ同じ美意識を持っているのだろうと推察するほかない。とすると、また初めに戻ることになる。というのも、なぜAとBは対象において相当異なる女性XとYをそれぞれ「美人」と言うのかと問うて、AもBも「同じ美意識を持っているから」と答えたはずですが、その根拠は、AもBもXとYとを「美人」という同じ言葉で呼んでいるからとなり、ここで見事に振り出しに戻りました。

AとBが外形的には相当異なったXとYを「美人」と呼ぶのはなぜか、と問うたはずですが、まわりまわって獲得した答えは、AとBがXとYを「美人」と呼んでいるからとなり、はじめの場所から一歩も出ていない。つまり、何も説明していないのです。

一般に、「心」が哲学に登場する場合、このように「答えたつもりになるため」の都合のいい道具にすぎないように思われます。「美意識」を持ち出したのはなぜか反省してみるに、そこには「美人」という言葉で呼ばれる対象はさまざまですが、やはり「美人」という同じ言葉を使うのだから、どこかに「同じもの」があるに違いない。そして、その「同じもの」が外界には見いだせないゆえに、無理やりそれを「心」の中に叩き込もうとする。つまり、推論は次のように進む。まず①同じ言葉を使っているのだから、その言葉の使用関連領域には何らかの「同じもの」があるに違いない。②それは、科学的あるいは論理的に突き止められるはずだ。そして、③突き止められないときは「心」の中に「幻の機能」を創り上げる、というわけです。

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