このすべては、まったくの根拠のない想定であるけれど、われわれはそれにもかかわらず、なぜかこの想定を手放さないで、むしろそれにすがりついてしまう。ここで、ふたたび、「なぜこうなるのか?」と問うと、「心」をめぐるありとあらゆる哲学的難問が頭上に降ってきます。
ここに「深入り」することが、今回の目標であるはずはなく、ここでは、むしろ①同じ言葉は同じ対象に適用されるはずだ、という想定と、②異なった発話者によって、同じ対象に異なった言葉が適用されたり、異なった対象に同じ言葉が適用されたりすることがある、という経験的事実を調整するために「心」という概念が発案されたのではないか、という論点に絞って考えてみましょう。
われわれは、ふつう大部分の人が「赤」と呼ぶ色を「青」と呼ぶ人Sがいるとき、Sは「アカ」を「アオ」と呼びたいのだとは考えずに、Sは同じ刺激に対して、大部分の人とは異なった色覚を持っているのだと考える。こうして、Sの内面では「赤」を「青」と感じているのだろう、と想定して安心してしまう。Sは大部分の人と同じように感じているのだけれど、なぜかその言葉使用が大部分の人とは異なっている、という発想法は遮断されるのです。
こうして、同じものでも人によってさまざまに感じられると言って安心するのですが、各人の「感じ」には入ることができない、よって比較もできないことを忘れている。そして「美」の場合、以上の真逆でありながら、やはり各人の「感じ」を持ち出して「解決」しようとする。もう説明したので、くどくど繰り返しませんが、大部分の人が「美人」と呼ぶのにそう思わない人、逆に大部分の人が「不美人」と思っているのに「美人」と称賛する人が出てくると、彼(彼女)はふつうの人とは美に対する感受性が違うのだろうと断じて、切り抜けようとする。
いいでしょうか? これは単なる1つの説明方式なのであって、ほとんど根拠なく多くの人が賛同しているだけであり、それ以上の意味はない。もしかしたら、「心」や「感じ」の個人差などなくて、ただわれわれが言語を学ぶと、各人がなぜか互いに少しずつ異なった言語の使用法を開発し始めるのかもしれない。こう想定しても、すべて説明可能です。
言葉の使い方がふつうの人と異なっているだけ?
最後に少しだけ、連日ニュースをにぎわせているゴミの山のようなウソについてコメントしますと、いま問題になっている国会議員AもBもCもDもEも、官僚FもGもHもIもJも、ウソに対する感受性が違うのではなく、すなわちウソをついても屁とも思わない厚顔無恥な感受性なのではなく、ただ「ウソ」とか「真実」という言葉の使い方がふつうの人と異なっているだけなのかもしれない。
確定的証拠のない限り平然とウソをつく人々、いや、膨大な証拠を突き付けられても「ウソをついた」と自認しない人々の群れに、怒りを通り越して不思議な気持ちに襲われる現今、むしろ(心身の健康を保つには)こう考えたほうがよさそうに思われます。もはや、現代日本の政治状況は、通常のモデルでは分析できないほどの異常事態だということでしょうか?
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