森友問題から読み解く人間の「ウソの本質」 人間にウソをつかせるのは人間の理性だ

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われわれが、「よい」という言葉を状況に応じて理解できるわけ(写真:Nikada/iStock)

1年ぶりに「森友問題」が公文書改ざん問題にまで発展し、いまや国会でもジャーナリズムでも激しく炎上し続けています。振り返ってみると、このコラムでも、昨年の今ごろ3回にわたって森友問題を題材に 「ウソ」の分析をしたのですが、やはり「わかった」という声に交じって「何を言いたいのかまったくわからない」という意見も少なくなかった。

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このコラムに私が書く理由は1つしかなく、それは、目下テレビや新聞や週刊誌を通じて侃々諤々の議論をしている問題を、一般世間ではほとんど耳目に触れることのない哲学的観点から、取り扱うことです。

しかし、今回もまた、「わからない」という声が続出するかもしれません。しかし、これが哲学なのですから仕方ない。今回は、読者たちをさらに容赦なく哲学の奥深くへ導くことにしましょう。

ウソとは、真実ではないことですが、昨年提示したテーマは、なぜ安倍首相はじめ、いかなる大臣も、官僚も、議員も「自分は嘘をついていた、それでなぜ悪いんでしょうか?」と居直らないことです。この射程はかなり広く、徹底的に追及すると、ほぼ哲学のすべての根幹に触れてくるほどの大問題に発展する。

「真実」という言葉そのものの意味を問う

ここで、1つ問題提起をしますと、ほとんどの(非哲学的な)人は、「何が真実か」という問いにのみ目が行きますが、哲学にとってはるかに重要な問いは「真実とは何か」という問いです。前者は、「真実」という言葉の指し示すもの(あえて言えば「内容」)を問うているのに対して、後者は「真実」という言葉そのものの意味(この言葉にまつわる態度)を問うている。両者は全然違います。

現代日本人のほとんどは、真実という言葉の内容が一義的に決まっていないと確信している。経験的な観察可能な出来事なら比較的決まりやすいのですが、「心」に関しては、なかなかそうはいかない。議員や役人が国会で答弁する際に、当人が真にそう思っているのか、それとも真にそう思っているのではなく、ただ不利な弁論を避けるためにごまかしているだけなのかは、容易にわからない。

よって、いかに野党側が、あらゆるデータから総合的に判断して、合理的には「そうしか思えない」と追及しても、決定的な(不法の)証拠が出てこないかぎり、ただの「推測」と見なされてしまう。こうした虚しさは、多くの人が日々テレビの前で、新聞を広げて、 感じていることでしょう。

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