しかし、今回はこのことを論じたいわけではありません。こうした真実の切り口は事柄の半面であって、もっと深いところに(哲学者しか議論しない)真実をめぐる問題が潜んでいる。それが、「真実」という言葉の意味に関する問いです。
これを考えるに、もっと適切な言葉を選びましょう。それは「よい」という言葉です。「よい」にも、同じように、「何がよいのか?」という「よいもの」の内容に関する問いと「よいとは何か?」という「よい」という言葉の意味に関する問いがあり、やはりほとんどの人は前者の問いしか出さない。
「よいこと」の規準
そして、たぶん現代日本人のほとんどが、何がよいのかについて唯一の規準があると思ってはいない。「よい」ことは、人によって、国によって、時代によって、文化によってさまざまだ、とごく自然に思い込んでいる。
ですから、たとえばソクラテスが「よい人はよいことをするのではないか?」と論争相手に迫ると(文字通りこう迫るわけではないけれど、これに似た迫り方はいくらでもある)、ほとんどの者が「ソクラテスよ、その通りです」と答えるのですが、現代日本人はこの問答に違和感を覚えるのではないかと思います。そうですね、ごく小さい子を除いて、小学校高学年にでもなれば、(とくに頭のいい子は)こう答えそうもない。
ここで、当時のギリシャにおいては、「よいこと」の規準がはっきりしていたから、こう答えてしまうのも無理はない、という反応は(その通りなのですが)、事柄の半面しかとらえていない。
ここで、ソクラテスは、さらに「よい」という文法のもう1つの意味に踏み込んでいるという解釈も成り立ちえます。その意味とは何か?これは、リチャード・マーヴィン・ ヘアーあるいはジョン・マッキーなどの分析哲学系の倫理学者が研究し、いまや哲学界では常識なのですが、「よい」という言葉と使用するときの肯定的態度と言いましょうか、それは不変なのです。
ヘアーの例を出せば、首狩り族の島にあるときヨーロッパ人の集団がやってきて、島を占領し支配した。その集団には宣教師の一群もいて、島の原住民をすべてキリスト教に改宗させた。さて、そのとき以前は、「敵の首を狩ること」は「よいこと」であったけれど、そのとき以後は、それは「よくないこと」に変わった。
そして、「敵の首を狩らないこと」が「よいこと」に変わった。この場合、すぐわかるように、そのときを境にして、「よい」と「よくない(悪い)」の意味が逆転したように見えますが、それは、事柄の半面にすぎない。この場合でも、「よいこと」を賞賛し、「よくないこと」を非難するという態度そのものは変わっていない。
ヘアーは、前者を「よい」の記述的意味、後者を評価的意味と呼んで区別しましたが(意味というのには抵抗もありますが)、確かに、ここには、普遍的なものが維持されていて、われわれはそれを理解しているから、「よい」という言葉を適切に使うことができるのです。
ここで記述的意味を維持して、評価的意味だけを逆転することも論理的に可能ですが、たぶん大混乱に陥ることでしょう。すなわち、その島ではそのとき以降は「敵の首を狩ること」はやはり以前と同様「よいこと」なのですが、今度は「よいこと」をしたゆえに、当事者を厳しくとがめるのです。そして「敵の首を狩らないこと」は悪いことですが、今度は「悪いこと」をしたゆえに、称賛するのです。
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