パワハラ議員の罵声に失笑すら起きない理由 ウソが蔓延する政界にまたもや大ニュース

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「このハゲェ――っっ!」というすさまじい罵倒から始まる音声が公開された自民党・豊田真由子議員。表の「しおらしい」態度と対比させたメディアの意地悪い映像を見ても、不思議と笑いは起きません(写真:アフロ)

このところ「世界」を破壊する作業を続けていて、長い思索の結果、未来は完全に「ない」ことが判明したのですが、目下、さらに大いなる敵である過去も「ない」ことの論証に取り組んでいます。しかし、過去は未来と異なり、過去へ直接通じる「記憶」と「証拠(痕跡)」というものが〈いま〉あって、それはいかにも「ある」かのような相貌でわれわれに迫って来る。でも、誰でも知っているように、過去に「戻れない」ことは確かだし、〈いま〉想起するのだし、それが過去と一致しているかを確かめる方法はないし、(恐竜の足跡のような)古い証拠といえども〈いま〉「ある」ことも確かです。

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つまり、過去とは、想起と証拠の束から〈いま〉は「もはやない」けれど、「もはやない」というかたちで「あった」と見なす限りのものであって、それ以上の確実性はない。そう思って、死ぬ前にどうにかして、未来も過去もなく、ということはそれらに挟まれた「現在」もなく、ということは、世界はなく、よって死ぬことは世界「から」の消滅ではない、むしろある無から別の無への移行というくらいの意味だろう、という展望をもって思考しています(詳しくは、いま店頭に出たばかりの拙著『明るく死ぬための哲学』文藝春秋を参照のこと)。

「ウソ」の連鎖に飽き飽きしてきた

想い起してみると、本連載のテーマは「哲学と世間」なのですが、「世界がない」ということに関しては哲学と世間とのあいだになんの接点もないように思われる。いや、絶対にそう言わせないのが世間だというくらいの話はできますが、これも何度も言ってきたこと。古代ギリシャだったら死刑になり、中世だったら確実に火あぶりでしょう。そして、現代日本においてさえ、世間がそう言わせないことくらいわかっている。というより、世間とはどうしてもかみ合わないこともわかっている。

そこで、もう少し、世間とかみ合う議論をしようと思い立って、ここ数回「ウソ」をめぐって問題を提起している次第です。国会の会期も終わり、森友問題も加計問題もうやむやにしたまま、テロ等準備罪法案も予定通り強行採決によって国会を通過し、その後内閣支持率が激減するや否や、安倍晋三首相は「深く反省する」という記者会見を開きながら、具体的には何もせず、という絵にかいたような「ウソ」の連鎖にも、いいかげん(批判するのさえ)飽き飽きしてきました。とにかく、安倍首相と菅官房長官の表情も言葉も、ここまで来ると一切信じる気がなくなってきますね。

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